初心のころ、「仏教の森は深く、用心して足を踏み入れないと、道に迷うことになるぞ」と先輩の仏道修行者から言われたことがあります。
本当に、わたしは道に迷いました。初期仏教の教えに出会って、日本仏教の教えとの違いの大きさに戸惑い、日本仏教の世界の中でも、家の宗旨である浄土真宗からスタートして、複数の宗派をさまよってきました。
しかし、実際には、わたしのように、仏教の森で迷い、さまざまな宗派を遍歴してきたた僧侶は、ほとんどいないと思います。それは日蓮宗の寺院に生まれれば、日蓮宗の世界で生きることに疑問を持つことは、まずないからです。寺院に生まれた子弟が、生家の寺院と異なる宗派の寺院の僧侶となったという話は聞いたことがありません。
在家でも、伝統仏教の篤信者のほとんどは、生家の菩提寺の宗派の信仰を引き継いでいます。
ですが浄土真宗を篤く信心する家に生まれながら、十代の頃から法華経に帰依して、家族の反対を押し切って日蓮宗の僧侶になった方を、わたしは一名だけ知っています。
そういえば宮沢賢治も、浄土真宗の家に生まれながら、僧侶にはなりませんでしたけれど、法華経に深く帰依した人でした。
わたしは、純粋な信仰を持ち続けた、このお二人を尊敬しています。
このお二人と違って、わたしは、本当に仏教の森で迷ってきました。中学時代に親鸞聖人の教えが説かれている歎異抄に感動して涙し、その後すぐに、親鸞聖人が唱えることがなかった般若心経を暗誦し、禅を組み、弘法大師の密教に惹かれて不動明王の真言を唱え、ようやく法華経に落ち着きました。
法華経一筋に歩んできたら、もっと法華経への信がふかまったのではと思う反面、これでよかったのだという思いもあります。
それは様々な宗派の教えに触れることで、却って法華経への理解が深まり、大きな視野で仏教を捉えることができるようになったと感じるからです。
わたしはこの道しか歩めませんでした。
他者からどう思われるか気にせず、自分だけの道を歩んできましたけれど、後悔はしていません。
妻からは「とんだ変わり者と結婚してしまったわ」と言われていますが。