体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

言葉を超える

「海外異文化体験」で夏休みに、生徒を引率してオーストラリアの高校に行き、研修したことが何回かあります。普通は校長が団長になるのですが、ある年、校長に所用ができて、私が団長となったことがありました。

団長は、全校生徒や教員の前でスピーチをする機会が何回かあります。わたしは、国語科の教員です。流暢な英語は話せません。一緒に引率した若い英語の教員二名のどちらかに通訳を頼んでもよかったのですが、ヨレヨレの英語でスピーチしました。

いずれは海外の仏教者と交流したい。そんな願いがあったので、英語のスピーチに挑戦したのです。

生徒はオーストリアの家庭に一人でホームステイします。わたしもホームステイするか、打診を受けましたが断り、ホテルでひとり暮しをしました。一般家庭の中で英語を使って生活するのは、わたしにとっては、あまりに大きなストレスであったからです。

帰国して「言葉を使って不自由なく意思の疎通をはかることができるのは何と有り難いことなのだろう」としみじみと思いました。

小学生が日常生活で会話するレベルなら、外国語を修得するのは、そう困難なことではないでしょう。ですが自在に使いこなすということになると、これは大変なことです。

あちらの学校では、オーストラリア人の日本語教員に「つつむ」と「くるむ」はどう違うのかと質問されました。幸い英語ではなく日本語で訊かれたので、日本語で丁寧に返答できました(確か「赤ちゃんを毛布でくるむのはOKですが、毛布でつつんだら、窒息して大変なことになりますよ」といった話をしたと思います)。他にも「のぼる」と「あがる」など、微妙な違いのある日本語はたくさんあります。

仏教に関して言えば、和訳した経文を読んでも、理解するのは困難です。『法華経』には「空」という言葉が、ひんぱんに登場しますが、これを単に「空」と言って済ませてしまったのでは、経典を理解することはできません。

さて、ここまでは言語によるコミュニケーションの話ですが、釈尊の目覚めの内容を言葉で表現するのは言語道断のことです。日常では、言語道断は「とんでもない」、「もってのほか」という意味で使われていますが、仏教では「根本的な真理が言葉で説明し尽くせないこと」をこう言います。

釈尊の目覚めをわがものとするためには、言葉を超えていかねばなりません。そのためにあるのが仏道修行です。わたしは唱題という仏道修行を行じています。

修行者同士は、言葉が通じ合わなくとも、相手の力量が分るものです。本気で唱題修行している人は、私の唱題を聞けば、わたしの目覚めが深いか浅いかが、瞬時に分かってしまうはずです。これはある意味で恐ろしいことです。

この記事を書き終えたら昼寝をしようかと思っていましたが、ウカウカしていられません。御宝前で唱題をすることにします。