体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

サッカー少年の「南無妙法蓮華経」

先日、中学二年生になるサッカー少年、ガクトとお題目を唱えました。彼とは以前にも一緒に唱題したことがありますが、彼と対座して唱題をしていると、いつも彼の唱える「南無妙法蓮華経」に清々しさを感じます。

「南無妙法蓮華経」は誰が唱えても「南無妙法蓮華経」です。この七文字であることに変わりはないのですが、唱える人によって、唱題の波動と言ったらよいのでしょうか、感じられるものはさまざまです。

どうか商売が繁盛しますように。病気が治りますように、家庭が平安でありますように・・・。多くの人は、そのように願いながら南無妙法蓮華経を唱えています。

この世で、貧さ、病(やまい)、争いのない人生を生きたいというのは、ほとんどの人が共通してもっている願いでしょう。これを否定するつもりはありません。

ですが「〇〇が叶いますように」と強く願いながら唱えている唱題に、清々しさは感じられません。品格のない唱題というのもあるように、わたしには感じられます。

唱題の真の目的は、仏身を成就することにあります。このことをいつも心に留めておかないと、現世の利益だけを求める卑しい唱題になってしまう気がします。

斉藤大法上人は、「無願の唱題」ということを言われています。これは「唱題中は、この世的なことを一切願うことなく、妙法(久遠の本仏)と一つになるという思いに全集中して唱題する」ことを意味しています。

それは、他者を貶め傷つけるものでなければ何を願ってもよいけれど、唱題の中には願いは持ち込まず、仏身を成就するために、全身全霊で妙法と一つになる南無妙法蓮華経を唱えるということでです。

この唱題をしていると、計らわずとも、現世的な願いも自ずと成就していくということを経験するようになります。成就しないこともありますが、それは後になって振り返ってみると、成就しない方がよかった願いであることがわかることもあります。

ガクトは、「ただひたすら全集中の南無妙法蓮華経を唱える」という、わたしの言葉を素直に受けて、唱題していました。そこに欲求、願望が入り込む余地はなく、彼の一所懸命な唱題に清々しさを感じたのだと思います。それは澄んだ美しい唱題と表現してもよいものでした。

ですが、少年の澄んだ唱題と、真に法華経を行じる人の澄んだ唱題とは異なります。どこが異なるのか。それは唱題の深さです。

久遠の本仏(永遠のブッダ)のいのちが内からコンコンと涌出してくるような深い唱題。そのような唱題が真に法華経を行じる人の唱題です。この唱題はどこまでも深まっていきます。

ガクトにも、いつかそのような唱題をする日が来るかもしれません。と言う前に、まず至らぬわたし自身が唱題修行に邁進しなければならないのは、言うもでもないことですが。

南無妙法蓮華経