体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

24時間祈れますか

「24時間戦えますか」。バブル全盛期、テレビでよく耳にした栄養ドリンクのCMのフレーズです。当時は「企業戦士」という言葉もよく聞きました、

今、「24時間戦える企業戦士を求めます」という求人広告を出す企業があったら、ブラック企業と言われ、批判にさらされるでしょう。時代の推移を感じます。

さて「24時間祈れますか」というフレーズを聞いたら、あなたは、どう思われますか。「そんな祈りをしようとする人がいるの」と思われるかもしれません。

わたしは、お題目を唱えて就寝し、お題目を唱えて起床し、常時お題目の祈りを続ける修行に取り組んでいます。電車の中などでは、心中で唱題しています(電車のシートに座って、合掌して声に出して唱題していたら、周囲から人が消えるでしょう)。

では対話中や、今のようにパソコンに向かって文章を作成している最中は、どうするのか。心中で唱題を続けるのも困難です。このような時は、唱題モードで人やパソコンと向き合っています。

「唱題モード」というのは、「お題目を唱え続けている時と同じ心境」を指します。初心のうちは唱題時に様々な思いが混入してきますが、唱題修行が進むと唱題中、法華三昧に入ることができるようになります。法華三昧とは何か。それは、簡潔に言えば、御本尊と一つになった清明で澄み切った心境で在ることです。

この心境を唱題を終えて日常生活に戻った後も保ち続けるのが、常時、唱題モードで在り続けるという祈りです。この時は具体的な何かを祈ってるわけではありません。この唱題モードによる祈りを続けていると、自己とその周囲が平穏になり、自ずと環境が整っていくことを感じます。

日蓮聖人は、祈りには顕祈顕応、顕祈冥応、冥祈顕応、冥祈冥応の四種類があると言われました。

顕祈というのは具体的に何かを祈ること。顕応というのは、その結果が具体的に現れることを言います。

冥祈というのは、日常のたゆまぬ唱題の実践です。唱題モードであり続けるのは、冥祈であると言ってよいと思います。冥応というのは祈りの結果、具体的な何かが実現するというのではなく、心が浄化され、おのずと境涯が良き方向へと深まっていくことを意味します。わたしは唱題モードを持続させることによって、冥応が得られることを実感しています。

とは言うものの、唱題を終えた後、妻から「あなた、最近ボケたんじゃないの」などと言われると「そんなことはない!」と立腹しているわたしがいたりします。

常時、唱題モードでいるのは至難の業です。ですが、浅いながらも唱題時に法華三昧に入れるようになったのは、ほんとうに有り難いことです。常時、不断の唱題による祈りは、この上なく難しい修行ではありますが、たいへんにやりがいがあります。

他者と敵対し、24時間戦い続けようとする人は穢土にいると言ってよいでしょう。いっぽう、24時間唱題の祈りをしようとる人は、今いるところが浄土となります(夢の中で唱題モードでいることも可能だと思います。わたしは実現し得ていませんが)。

今、生きている世界を浄土とするため、多くの方たちと共に唱題修行をしていきたいと願っています。この修行をすると、新しい世界が開かれてきますよ。