体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

秋のお彼岸に体験したこと

秋分の日は国民の祝日です。「国民の祝日に関する法律」には、各祝日の主旨が定められていますが、「秋分の日の主旨は?」と問われて答えられる人は、ほとんどいないのではないでしょうか。

「先祖を敬い、亡くなった人をしのぶ」。これが、法律で定められたこの祝日の主旨です。このことをわたしはつい最近、知ったのですが、「日本はやはり仏教国なんだなあ」と感じました。

秋分の日を中日とした前後三日間、計七日間は、古来、秋彼岸と呼ばれ、日本人は墓参をし、お寺に出向き、先祖供養をしてきました。彼岸の前半は、わたしが所属する宗派、日蓮宗宗務院は休業します。それは、職員のほとんどが僧侶であるので、お彼岸の供養で多忙になるからです。

この期間は、本来は仏教徒が彼岸に渡るための修行をする期間です。彼岸とは彼方の岸。そこは迷いを脱し、生死を超えた目覚めの世界です。

いっぽう煩悩に満ちたわたしたちの住む世界は此岸(しがん)と言い、これは、こちら側の岸という意味です。彼岸は迷いの世界の岸から目覚めた世界の岸へと渡るための修行をする期間であるのです。

修行はおろか先祖への敬いの気持ちを持つこともなく、この期間を過ごす日本人が増えているようですが、それでもこの期間、多くの墓所には花々が生けられています。

この期間、わたしは我が家の先祖だけではなく、僧侶として、縁ある方々の供養をさせていただきましたが、昨日は墨田区、両国にある東京都慰霊堂とその傍らに建立されている関東大震災で亡くなった子どもたちの慰霊碑に赴き、読経、唱題をしました。

東京都慰霊堂は、関東大震災による遭難死者五万八千人の遺骨を納めるために作られ、そののち、東京大空襲などによる殉難者、約十万五千人の遺骨も合わせて納められた霊堂です。

この日の夜は、わたしの修行の師、斉藤大法上人が住職を務めている要唱寺のZoom彼岸会(ひがんえ)がありました。

この彼岸会は、本来の彼岸の意味を踏まえた新しい形の彼岸会です。要唱寺のHPから、そのコンセプトについて記された文章の一部を引用します。

 

当寺院の彼岸会は、仏教のほんらいの意味に照らして、改めて彼岸会を問い直し、創ってみたいと思います。特に①彼岸のほんらいの意味や目的が曖昧になっている、②お坊さん任せの読経(お坊さんが、唱える人、在家の方は、聴く人と分かたれていては、仏道は、空洞化し、宗教依存をつくりだす素地となっている) 、という在り方を修正すべきだと思っています。

 
そこで、仏の悟りを目指して出家在家に関係なく至心に “南無妙法蓮華經”と唱えることを本義とする。(もちろん、その中には、自分自身の悟りのためと、身近な他のためと言う意味で、ご先祖や亡き家族の為も含まれています)
そうして唱題することによって体験されることが、彼岸(悟り)の歩み(或いは実現)である、というのが当寺院の彼岸会のコンセプトです。
 
 
大法上人は、形だけではない、本当の「たましいの供養」ができる方ですが、昨日のZoom彼岸会では、「はじめにに多くの子どもたちが、そしてその後、無数と言ってよいほどの御霊(みたま)が浄化して上がっていきました」と語られました。
 
この彼岸会での唱題時、東京都慰霊堂関東大震災で亡くなった子どもたちの慰霊碑がわたしの胸中にしばらく浮かび、唱題は大法上人の唱題と響き合って供養の唱題となっていることを感じました。
 
このことで、昼間の慰霊堂での供養が、夜の要唱寺のZoom彼岸会で継続して行われているということを実感しました(東京都慰霊堂にわたしが赴いたことは、彼岸会の唱題の前、大法師をはじめとして誰にも伝えていません)。
 
彼岸会に参加された方々は、真摯に自行としての唱題をし、同時に、それぞれの方に縁する御霊が浄化されていきました。これが本来の彼岸会であるのだろうと深く感じました。
 
多くの御霊と共に、わたし自身のたましいも、彼方の目覚めの世界の岸の方向へ進んで浄化され、大変に有り難い彼岸会となりました。