体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

囚われから解放されるために

十代のころの話です。

文具店のコピー機でコピーを取ろうとしていると、四、五十代と思われる店のおばちゃんが「取ってあげるわよ」と言うので、B4の歴史資料十枚ほどを手渡しました。

すると、おばちゃんは、指に唾(つば)をつけて、「一枚、二枚・・・」と資料を数え出しました。おばちゃんから「はい、できたわよ」と歴史資料を渡されたとき、わたしは、こわばった顔で「ありがとうございます」と言ったのを覚えています。

指に唾をつけたのが、うら若い女性であったら、十代のわたしは、自然な笑顔で「ありがとうございます」と言ったのではないかと思います。

わたし、若い女性、おばちゃん。どの唾も唾であることに変わりはないのに、なぜ、おばちゃんの唾だけを忌諱するのでしょうか。

そう言えば、先輩僧侶から、こんな質問をされたことがありました。

「検尿で使ったコップを完全に殺菌消毒した後、それにビールを注いで出されたたら、飲み干せる?」

人は特に人体に害がないと分かってはいても、心に囚われがあるとイヤーな気分になるものです。

こんなイタズラをしたことがあります。

紙コップに、検尿の容器のようにマジックで線を描き、そこにオレンジジュースを注いで友人に出しました。友人は,嫌そうな顔をしていました。

仏教の「空」は様々に表現されていますが、一切の囚われから解放された状態は、空の状態と言うことができます。

『般若心経』は空を説いたお経ですが、わたしは、この経典を「囚われからの解放を説いた経典」と説明することがあります。

法華経』にも「空」という言葉が多く登場します。空は大乗仏教のキーワードです。

「諸法空相」という言葉があります。諸法とは目に見える一切のものですが、それは空であると仏教は言います。一切の囚われから解き放たれた、無限大、無尽蔵のいのち。それが空なるいのちです。森羅万象はこのいのちの顕れであるというのが仏教の教えです。

自己はこの空なるいのちに他ならないということに目覚めていくのが仏道修行です。

唱題中、わたしの心は、本尊と一つになり空となっています。ですが唱題三昧から出ると、「一切の囚われから解き放たれた、無限大、無尽蔵のいのち」は、自他を離別して、妻に馬鹿にされると怒ったりたりする、囚われの中にある小さな固まったいのちとなっています。

唱題が真に深まっていれば、唱題を出ても空を保つことができるはずです。日常生活でも空を観じていることができることを目指して、わたしは唱題修行に励んでいます。

あらゆる囚われから解き放たれ、空を体得するために、食卓に大便の写真を立て置いて食事をする修行者がいたという話を聞いたことがあります。写真ですから、かぐわしい匂いを嗅ぐことはないでしょうが、このような修行もあるのかと、びっくりしました。

過激な修行が合っている人もいるのかもしれません。

日蓮宗では十一月一日から二月十日にかけて、百日間の荒行が行われます。わずかな睡眠時間で、食事は白粥を朝夕の二回すするのみ。一日、七回もの水行と読経に命がけで専念する過酷な行です。六十五歳になろうとするわたしがこの行に入ったら死んでしまうでしょう。

ですがわたしは、身と口と心で唱える全身全霊の唱題一つで、空を体得することができると感じています。唱題行に徹するのみ。そう覚悟を決めています。