かつて、勤務していた高校でわたしが開講していた、一般市民対象の公開講座名は「教養としての仏教」。受講生の平均年齢は六十代半ばを超えていたのではないかと思います。
中には九十歳に近い受講生もいらして、親しい同僚は「講座の期間中にお浄土に旅立たれる方があるかもしれないね」などと言っていました。冗談ではなく、わたしは真面目に講義中、受講生の体調を気遣っていました。
「仏教の目的は成仏することにあります」。こう言うと年配の方は頷かれますが、わたしが同様のことを、教室で教え子に言ったら「それは、ぼくたちには関係のないことです」といった顔をされました。
いじめにあったり、親の介護で大変な思いをしたりしている若者に「即身成仏、つまりこの世で成仏すれば、その苦しみは解決する」と言って、受け入れられることは、まずなでしょう(成仏することによってすべての苦しみが解消するというのは真実なのですが)。
日蓮聖人は仏と成るための最勝の法は、唱題、南無妙法蓮華経を唱えることであると言われました。さらには、あの世に往ってからではなく、この世で唱題により成仏することができると説かれました。
わたしは日蓮聖人の教えに従って仏道を歩み、唱題をしてきました。その結果、唱題によるこの世での成仏は真実であるという確信を持つに至りました。
ですが、今、わたしは十代の若者に唱題を勧めることがありますが、仏に成ることが唱題の目的であるとは言いません。
恋愛、受験、就職、結婚・・・。十代の若者は、この世で様々な夢を描き、願いを持って生きています。
理系か文系か、進路で悩んでいる若者に、わたしは、教員時代の経験を踏まえてアドバイスをした上で、「唱題をしてみないか」と言います。
「えっ?」とい顔をする若者に、わたしはこう言います。
「『君は偉大だ。君の内には限りない可能性が潜んでいる』。法華経という御経にはそう書かれてある。その可能性を開花させるために唱えるのが南無妙法蓮華経なんだ」
今日、わたしは勉強を教えている中学二年生の男の子に、筆で「道を開くための極意」と仰々しくタイトルを書いた一枚の紙を渡しました。そこにわたしは以下のことを記しました。
澄んだ真っ直ぐな強い願いを持て。 そのうえで以下の三つを堅持せよ。君の願いは必ず成就する。
*目に見えない大いなる存在の導きがあることを信じよ。
*自己の内に在る限りない可能性を信じ、自己を大切に育め。
*同時に、他者も限りない可能性を持っていることを信じ、他者を敬え。
以上の三つの「信」が凝縮されたものが南無妙法蓮華経である。 南無妙法蓮華経と一つになるとき、君の道は開ける。
この人生の極意書(?)を受け取った少年は、これからいろいろなことにチャレンジし、大きな困難に遭遇することもあるでしょう。ですが南無妙法蓮華経と共に生きれば、たとえ転んでも、また立ち上がり、希望に向かって進んでいくことができることは間違いありません。
この少年が、おとなになって様々な経験を重ねたころ、わたしは「唱題の究極の目的は成仏することにある」と話そうと思っています。