体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

心の断捨離

書斎の乱雑な書棚と、床に横積みになって放置されている本を見かねた妻が、わたしにこう言いました。

「書棚を整理できないで、不要の本も置きっぱなし。あなたの本は全部ブックオフに売ります!」

「本を売るならブックオフ♪」というコマーシャルがありましたが、大切な仏教書を売られたら、わたしは僧侶として生きていけません。わたしは妻に向かってこう言いました。

「本を売るならブン殴る♪」

妻に大変に叱られました。

ですが、妻の「本を全部売ります」という一言で、わたしは書斎の断捨離を決意。不要な書籍や書類を処分することにしました。

暮らしの中で不要な物を捨てるのが断捨離ですが、そこには物に執着せずに生きていこうという思想があるようです。

最近、唱題行(南無妙法蓮華経と一つになる修行)を深めるのには、心の断捨離が必要であると感じています。

社会生活の中では、あたりまえのことですが「私は小島弘之である」という意識は必要です。ですが、唱題をするにあたっては、小島弘之は不要なのです。最初は、小島弘之が全身全霊で唱題をするのですが、唱題が深まると「私」が唱えているという意識は消え、南無妙法蓮華経が自ずと腹の底から涌き上がってくるようになります。このときの南無妙法蓮華経は、小島弘之が唱えるもののではなく、小島弘之という「私」を超えた大いなるいのち、妙法が唱える南無妙法蓮華経となっています。

このような南無妙法蓮華経を唱えるために、日常にあっても不要な思いを捨て去っていくことは必要です。

「布施の三忘」という言葉があります。

いつ、誰に、何をしてあげたか。この三つを忘れなければ、真の布施を行ったことにはならないということを意味する言葉です。

布施というのは、一般に僧侶への謝礼の金品と解されています。ですが、本来は、励ましの言葉も、笑顔も、電車で席を譲ることも、仏の教えを伝えることも、すべてが布施であるのです。

「布施の三忘」の根底にあるのは「この私が・・・」という思いを捨てなくてはいけないという仏の教えです。

かつて勤務校の仏教の公開講座で布施について語ったとき、「私は日々、布施を心がけていて、布施日記をつけています」と言う受講生がいました。受講生は、誇らしげな顔で「日記には、布施をした日時と人と布施の内容を記録しているのです」と話してくれました。

わたしは絶句しました。

仏道を歩むにあたっては、「私」を光らせ誇示することに意味はありません。却ってそれが歩みを妨げてしまうことになります。

この「私」が非難されたり見下されたりして、そのことで怒ったり凹んだりすることも妨げになります。

わたしには二人の仏道の師匠がいますが、お二人と事実無根のことで誹謗や中傷されても、そのことに拘泥することなく、むしろ自分に悪意を向けた人に慈しみの心を向けています。

怒り、憎しみ、凹む心、自己を誇ろうとする思い・・・。そのような思いを捨てているからこそ、お二人は、深い唱題を行じることができているのだと思います。

妻に「本を売ったらブン殴る♪」などという私は、まだまだ修行が足りません。精進してまいります。