光を感じて生きる ー霊媒体質の方へー その2
都会の雑踏から帰宅すると、ドッと疲れが出る。そのようなことがあれば、あなたは霊媒体質かもしれません。
霊媒体質者は無意識のうちに他者のネガティブな思念の影響を受けたり、憑依されてしまったりします。ですから、人込みに居ることが苦手です。
最近わたしが共に修行した霊媒体質の女性、久美子さん(仮称)は、そのようなことが頻繁にある人ですが、霊媒体質というよりも霊媒そのものであるといった方が適切かもしれません。
霊媒とは、死者の霊魂を自身に乗り移らせて、死者に代わって口をきく媒介者です。 久美子さんの場合、簡単に霊が乗り移ってしまい、霊が口をききます。人と話をしていても勝手に霊が入り込んできて、体が動き出したりします。彼女はまさに霊媒です。
このような人はしっかりと修行をしないと、未浄化霊に翻弄されて、一生を棒に振ってしまうことになります。そこで久美子さんと修行することになったのです。
まず、私が久美子さんの前で読経、唱題すると、彼女は平安を得たようでした。そのあと対座して(向き合って)一緒に唱題すると、わたしの唱える南無妙法蓮華経の声が「暗いところから上って行きたいけれども、なかなか上って行けない」といった感じの、振り絞るような苦しいものとなりました。
わたしは霊媒ではありませんので、わたしに霊が憑依したわけではありません。ですが、唱題修行が進むと、心の中の鏡にさまざまなものが映じて、唱題の声が変化することがあるのです。
この苦しい声は最初、久美子さんに憑依した霊の苦しみが映じたのかと思いましたが、そうではありませんでした。久美子さんの今の苦しい心の状態が映ったようで、このことを久美子さんを傍らでサポートしていた女性も感じて彼女に伝えると、久美子さんは「まさにその通りです」と言っていました。
さらに対座して共に唱題を続けていますと、久美子さんの手が舞うように動き出しました。しなやかで優美な動きでした。久美子さんに縁のある、浄化している霊が彼女に乗り移ったのです。
この霊は、唱題修行が終わった後も彼女に乗り移り、わたしに向かって、読経、唱題について「何と美しいのでしょう」と語り、感謝の気持ちを示しました。女性の霊のようでした。久美子さんは、この霊と共に修行していくことになるようです。
唱題修行の後半では、久美子さんの手が震え出し、天井に向かって上がって行きました。その時、彼女の唱題は嬉し泣きのような声になりました。霊が憑依しているようでしたので「どなたですか」と聞いてみると、それに答えることはありませんでしたが、霊は「ありがとう」といって上がっていきました。未浄化な霊が浄化していったようです。
この修行体験を帰宅して妻に話したところ、「あなたには、ついていけないわ」と言われました。妻は、わたしが作り話をしていると思ったわけではありません。常識の範疇を超えた修行をしているわたしに対して、そう言ったのです。無理のないことだと思います。
人に理解してもらえない、精神に異常を来しているのではないかと思われるような経験を日常してきた久美子さんの苦しい心中は、察するに余り有ります。
ですが、この修行体験で、久美子さんは希望の光を得たようでした。翌日、彼女から届いたメールにはつぎのように記されていました。
「昨日のご一緒させて頂きました時間は本当に私にとって忘れられ無いほどの経験でした」
久美子さんは、この経験をきっかけにして、唱題修行をしていく決意をされたようです。
わたしは、この修行をお導きくださった御仏(みほとけ)に心から感謝申し上げました。
この修行は、南無妙法蓮華経と一体化する修行、言い換えれば、自らが御仏の光を容れた器そのものとなる修行です。光で満たされた器に闇が入り込むことはできません。
未浄化霊と向き合うとき、わたしは、霊を排除しようとするのではなく、その霊に内在する仏性、仏としての光を感じ(「どのような存在も仏に成る可能性がある」というのが法華経の教えです)、南無妙法蓮華経と一つになる思いで唱題をしています。
そのとき、御仏は、わたしの意図を超えて、働いてくださいます。霊を癒し浄化するのが供養ですが、わたしは「我が供養は我が業(わざ)にあらず。御仏の業なり」と思っています。
自我の力で供養すれば、未浄化霊のいる深い闇に引きずられてしまいかねません。自我で「未浄化霊退散!」と念ずる祈りは、ただでさえ念の弱いわたしは、怖くてできません。
いかなる存在にも光を感じて生きる。これが仏道を歩むことであると思っています。
この記事が霊媒体質で悩んでいる方の参考となればと思いますが、記事では書き切れないこともあります。お問合せをくだされば、丁寧にお答えいたします。