体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

ご祈祷について思うこと

日蓮宗には荒行という、僧侶が行う百箇日の修行があります。この行は、千葉、中山の大本山法華経寺内にある、一般に「大荒行堂」と呼ばれる場所で修されます。

毎年、紅葉の時期、11月の1日に入行し、梅の花が見ごろとなる2月の今日、11日に成満(成就)します。

行中は間断なき法華経の読経がなされ、日に7回(午前3時、6時、9時、正午、午後3時、6時、11時)水行堂で水を被ります。

睡眠時間は3時間ほどで、食事は1日2回、ご飯ではなくお粥で一汁一菜。粗食と睡魔、厳しい寒さに耐えながらの修行は容易なことではありません。まさに大荒行です。

この行を成満したした僧侶は修法師(しゅほっし)と呼ばれ、日蓮宗では修法師のみが木剣という法具を用いた祈祷修法を執行することができます。

わたしは、教員を退職してから60代で僧侶として活動を始めましたが、これからこの大荒行堂に入ったら、生きては帰れないでしょう。

身延山の道場で35日間の修行をしたときは最年長(63歳)で、脆弱なわたしは、必死の思いで行に取り組みました(朝4時の一回だけでしたが、この修行でも毎日、水を被りました)。

なんとか行を無事に終えて下山する折には、ご指導いただいた年下の先生から「長生きしてください」と言われました。

ということで、わたしが修法師になることはありません。では、わたしが祈祷を行えないのかというと、そのようなことはありません。木剣修法はできませんが、法華経読誦(どくじゅ)とお題目で御祈祷することはできます。

そもそも木剣修法がなされるようになったのは、日蓮聖人が入滅された後で、日蓮聖人ご自身は、法華経とお題目のみで、祈祷をされていました。

さて、日蓮聖人はどのような思いで祈祷をされたのでしょうか。それは衆生を成仏に導きたいという思いに尽きるといってよいでしょう。仏教の目的は仏と成ることです。この目的に沿って日蓮聖人は祈祷をなさったはずです。

さらに言えば、聖人は、僧侶に頼り切ることなく、自らがお題目を唱える行をすることを信徒に勧められたはずです。僧侶に依存していたのでは成仏は叶いません。

わたしは、御祈祷をする場合、以上のことを忘れてはいけないと思っています。

わたしの師匠の瀬野泰光上人は、昔、高校受験合格の祈祷を依頼されたことがあります。依頼主のご子息の第一志望校は、合格するのが困難な高校でしたが、御祈祷をすると、ギリギリの成績ではありましたが、なんとか合格を果たすことができました。親子が真摯に祈祷なさった瀬野上人に感謝をされたのは言うまでもありません

ところが、入学してみると勉強が難しくて付いていけず、そのご子息は、合格できた高校を中途退学することとなりました。

それ以来、瀬野師は、ご祈祷するにあたって、依頼者の願いをただ本仏にお伝えして、一切を本仏に委(ゆだ)ね、ひたすら南無妙法蓮華経と一つになる唱題をなさっています。その上で、依頼者に日々、自ら唱題することも勧めていらっしゃいます。

この祈りをするとき、瀬野師は、本仏に導かれて、師が祈る人のいのちの輝きが増すことを実感されています。

わたしは、この祈りの唱題を無願の唱題と呼んでおり、瀬野師は純粋題目と言われています。わたしが、修行の師、斉藤大法上人の許で修行してきた唱題も、まったく同様の自我の念が入り込まない唱題です。

現世利益の祈祷を一切しない宗派もありますが、病気で苦しかったり、仕事や勉強、人間関係が行き詰ったりしている時、わたしは、僧侶に祈祷を依頼することがあってもよいと思っています。この祈祷が契機となって、真摯に仏道を歩み始めた人もいます。

ただ注意しなくてはならないのは、そこに依存と支配の関係ができてしまうことです。檀信徒が僧侶に助けを求め、僧侶が「分かりました。私があなたを、わたしの祈祷によって救ってあげましょう」という関係です。

伝統仏教の世界では、カルト教団のように、信徒を不安と恐怖で支配するということは普通は起こり得ないでしょう。ですが、無意識のうちに信徒が僧侶に依存し、僧侶がその依存に応えてしまっているということはあります。

法要の際、多くの遺族は「供養をしてくれるのは僧侶で、自分たちは供養を依頼して、ただ参列しているだけ」という感覚を持っています。そこで僧侶は、遺族に「供養の主人公はあなた方です。一緒にお題目をご唱和ください」と言わなくてはならないと思うのですが、そうではない場合が、間々あります。

檀信徒の依存を正し、檀信徒が自らの唱題によって仏となる道を歩んで行くように誘(いざな)っていくことが法華の僧侶の務めであると、わたしは考えています。

法華の道は、誰かに祈ってもらい唱題してもらえば救われるという他者依存の道ではありません。

日蓮聖人はつぎのように言われました。

法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる」

わたしは、寒気の中で凛として花を咲かせる梅が好きです。

厳しい状況の中にあっても、「必ず春が来る。私は必ず仏に成ることができる」という信を持って、梅のように凛とした思いで、唱題道を歩んで行きい。そう思っています。