体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

死後はどうなるの?

わたしは日本人ですが顔は中国系のようです。中国人から同胞だと誤解されて、中国語で声を掛けられたことがあります。

二十代のころ、知人の住む、日本語教室が入っているマンションを訪ねた折、エレベータの中で住人のおばさんから、「日本語、難しいでしょ。頑張ってね!」と言われたこともあります。このとき「僕は日本人で国語の教師です」と勘違いを正すのは、おばさんの善意を無にする気がして「ハイ」と答えてしまいました。

この事があった直後、心理カウンセリングの勉強会で自己紹介をしたおり、中国人だと間違えられた話をし、「過去世でわたしは中国であったのかもしれません」と語ったことがあります(わたしは、知人の霊能者から「あなたは過去世で中国人の訳経僧であったことがある」と言われたことがあり、この指摘はわたしにとって腑に落ちるものでした)。

今は「前世退行催眠」といったものによって、過去世とういものがあると認識している人が増えていますが、当時はそういった状況ではなく、自己紹介の際の「過去世で中国人であったかもしれません」という発言は単なる冗談として受け取られたようです。

さて、釈尊は輪廻転生を認めていたのでしょうか。その答えは「認めていた」であると言ってよいようです(このことはインド哲学者、宮本啓一氏の『ブッダが考えたこと』などで詳らかにされています)。

ですが、日本仏教のほとんどの宗派は、先祖の冥福(あの世での幸せ)を願って年忌法要を営んでいます。これは輪廻転生を認める釈尊の教説とは相容れないものであると言えるかもしれません。先祖が生まれ変わって、別の存在として生きているとしたら、あの世にいる先祖の幸せを祈る必要性はないわけですので。

「死後はどうなるのですか」。こう日本の伝統仏教の複数の宗派の僧侶に聞いてみてください。答えはさまざまでしょう。同宗派であっても返ってくる答えが違うということもあり得ます。日本仏教諸宗派の教義の淵源は言うまでもなく釈迦の教えにありますが、それは、初期仏教の教説と異なって大きく変容しているのです。

加えて言えば、知識人の多くが「死後は無となる」と考えている現代の日本にあっては、「死後も人は生きている」と明確に言い切る僧侶は多くありません。葬儀、法要は死者のためでなく、遺族の悲しみを癒すためにあると言う僧侶もいます

日本の伝統仏教は死後についての共通した見解を持っておらず、この点があいまいになっているために、その答えを新宗教に求める人もいます。もっとも近年では反社会的問題を起こしたり、奇矯な教義が話題となったりしている新宗教もあり、新宗教に答えを求める人の数は減っているようですが。

最近「死後はどうなるの?」という問いに真摯に答えようとしている科学者が出てきました。工学博士の田坂広志氏はその一人です。田坂氏は昨年の10月、『死は存在しない ー最先端科学が示す新たな仮説ー』という本を上梓しました。

田坂氏はこの本で、量子科学に基づいた「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」なるものを提示しています。

「ゼロ・ポイント・フィールド」の中には、宇宙で起こる過去から未来までのあらゆる出来事が波動情報として記録されていて、肉体が滅びると、わたしたちの意識はその場に移り、自我は無となり、宇宙の記憶と同一化する。

簡単に言えばこれが「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」です。この仮説は「死は存在しない」とはいっても「死後の個性の存続」を認めているわけではないので、これが正しければ、冥福を祈られる死後のたましいは存在しないということになるでしょう。

田坂氏の『死は存在しない』は売れ行き好調のようです。死後、わたしたちはどうなるのか。このことについて、多くの人が関心を抱いているのでしょう。

日本は仏教国だと言われていますが、日本仏教は、死後について一定の見解を持っているわけではなく、日本には他の宗教を信じる人もいれば、無信仰の人もいます。そして田坂氏のような科学者の死後説も登場しています。また臨死体験や前世退行催眠を研究している学究もいます。

この状況の中で、一僧侶として活動するにあたって、「死後の問題」について自らの立場を明確にしておくことが必要だと感じています。

冒頭の話のとおり、わたしは自己の過去世というものを感じることがあり、輪廻転生を否定していません。と同時に、真摯に故人の冥福を祈ってもいます。そこにわたしは矛盾を感じていません。そのわけについては、また別に記したいと考えています。