体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

霊園墓地での法要に行ってきました

昨日、霊園墓地の墓前法要に赴きました。

霊園墓地にはホールがあって、参拝者はそこで休憩できます。

ほとんどの霊園に僧侶の控室はありません。更衣の場はあったとしても、多くの場合、畳一、二畳のスペースです。今回もホールの片隅でお茶を頂いていました。

僧侶の控室や更衣の部屋がなくとも、文句は言えません。ほとんどの霊園は、宗教不問で、無宗教の家庭のお墓も多数あるわけですので。とくに最近は、仏式の法要を営む家庭も減少しているようです。

ホールの片隅で遺族をお待ちしていることに不満はありませんが、心静かにお待ちするというのは難しい状況でした。

ホール中に音楽が流れているのです。バッハの静かな曲などであれば問題はありませんが、「森のくまさん」とか『となりのトトロ』の「歩こう、歩こう、私は元気~♪」といった曲が流れてくるのです。

「これからキャンプかピクニックに行こう」といった感じで、「これから法要を営もう」という感じではまったくありません。お経に目を通していましたが、どうにも落ち着きませんでした。

ですが、気持ちを読経、唱題モードに切り替え、無事に墓前法要を終えることができ、ほっとしました。

法要中、故人に真摯に合掌、焼香している遺族を見ますと、供養の大切さが実感されます。供養によって遺族の心は整理され、癒されるようです。

と同時に、わたしは亡き御霊(みたま)が癒され、上がっていくことを唱題時の声の変化で感じます。今回も唱題の声はおのずと変化していきました。それは力強く、歌うような美しい唱題でした。御霊が読経、唱題によって癒され、浄化されていくことを感じました。

このわたしの唱題のみで、故人が浄土と呼ばれるような高い世界へと往くことはないでしょう。ですが囚われがある場合、それから解放され、光の射す方向に進んでいくことを感じます。

遺族の中には「死後、人は無となる」と考えている人もあることでしょう。ですがわたしは、この唱題が変化していく中で感じたことを、どの法要においてもお話しています。

「死は永眠ではありません」とお説教はいたしません。あくまでも一僧侶の体験としてお話しています。

わたしの話をどう捉えるか、それは人によってはさまざまでしょうが、これからも、わたしは供養時の体験をお話させていただくつもりです。

ボケないかぎり、たましいの供養をさせていただきます。僧侶として、臨終が定年でありたいと思っています。