体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ1⑰ 一般のイメージとは異なる日蓮聖人の成仏

君は、仏について、常に静かで平安な美しい世界に座している存在だと思っているかもしれないね。実際、多くの人が仏にそのようなイメージを抱いているようだ。

こんな話を聞いたことがある。

あるキリスト教の信仰者は、死後目覚めてみると、花が咲き乱れ、鳥が歌う美しい世界にいた。空は晴れ渡り、涼やかな風が吹く心地よいところだ。「ここは天国に違いない」彼はそう思った。

だがすぐに、お腹もすかず、眠くもならず、夜も来ず、まったく変化のない世界に、退屈して時間を持て余すようになった。

そんなとき、彼は空を横切る天使を見た、彼は天使にこう尋ねた。「天使さん、ここは天国ですよね。

天使は答えた。「エッ、ここは地獄ですよ」

日蓮聖人の教えにおける仏というのは、静かに微笑んで蓮の花の台座に座っているような存在をいうのではない。

「私は長い厳しい修行を経て、涅槃寂静の境地に至った。ここが最終到達地点。私はついに仏となったのだ」という成仏は、日蓮聖人の説かれた成仏ではない。

聖人は次のように書かれている。

法華経は、手に取ればその手がたちまち仏となり、口に唱えればその口がそのまま仏となるのです」(『上野尼御前御返事・うえのあまごぜんごへんじ』)

日蓮聖人は「口に何千遍、何万遍とお題目を唱えることで仏になれるのです」とは説かれていない。

このことは「華果同時(けかどうじ)」という言葉で表現される。先に蓮の徳(勝れた特性)として「汚泥不染」を挙げたけれど、「華果同時」も蓮の徳の一つだ。

普通植物は、花が咲いて散った後に実を結ぶ。だが蓮は開花すると同時に結実する。

一般には、修行という因があって、成仏という果が得られると考えられている。だが蓮の花と同じように、南無妙法蓮華経と唱えると同時に人は仏となるというのが、日蓮聖人の言う成仏なのだ。

言うまでもなく、その南無妙法蓮華経はただ口先で唱える南無妙法蓮華経ではない。身・口・意の三つが円満に具わっている、全身全霊で唱える三業円満受持のお題目だ。

このお題目を唱える姿が成仏の姿であると日蓮聖人は言われる。

唱題成仏。これこそが日蓮聖の成仏なのだ。この成仏に到達点はない。三業円満受持のお題目はどこまでも深まっていく。自分は三業を受持してお題目を唱えていると満足したら落ちてしまう。この成仏は何処までも前進していく動的な成仏なのだ。

全身全霊で三業円満受持のお題目を唱えている人の姿を見ると、その人が僧侶であっても在家であっても、わたしは心打たれ、おのずと合掌して頭が下がる。そこにまぎれもなく仏の姿を見るのだ。

お題目は幼児でも唱えられる。だが、唱題はシンプルでありながら、恐ろしいほどの深みを持ってる。

わたしは自身の唱題を省みて、ようやくその入り口に立ったに過ぎないと感じている。唱題をしていて「これでよし」という日は、永遠に来ないだろう。

わたしの唱題をほめてくださった方がある。だが恥ずかしいことだが、私は唱題を終えた後、妻と口喧嘩をすることもある。唱題時の澄んだ心境を日常生活でも保つことは至難のことだ。

だけれど、全身全霊でお題目を唱えている時は仏。ちょっと唱えればちょっとの仏。そういうことだ。

この世の汚泥のなかで、時には転んで泥だらけになりながら、南無妙法蓮華経を唱えて前進している仏。問題だらけのこの世にあって、誰もが仏になれることを信じて生き抜いている仏。そういう仏をわたしは知っている。

日蓮聖人は、吹き荒(すさ)ぶ嵐の中にあって、大地にしっかりと立ち、常に南無妙法蓮華経を唱えて前に進まれた仏であった。