体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

ほんとうの供養がしたい

 長い間、亡き人の供養のために読経、唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)をさせていただいてきました。

 供養を終えて依頼者から「ほんとうに供養ができているのでしょうか」と、もし問われたら、わたしは「心を込めてさせていただきました」とは言えても、「はい、大丈夫です。ご安心ください」と言い切ることはできませんでした。

 死者は口をきかないのだから、それは仕方のないこと。そのように割り切ることはできず、わたしは「供養ができたという確信を持つことができたらなあ」と思っていました。

 唱題供養をすれば必ず故人は浄土に往けるのだと確信している僧侶や檀信徒もいるようですが、それは霊的な現実にそぐわない観念的な信仰であると感じています。

こう言う人もいます。

「死後は無に帰するのではないですか。供養は、遺されたこの世の人が心の整理をつけ、癒されるためにあるのでしょう」

 わたしは、まったくそのようには考えていません。「死後も人は生きている」ということを、さまざまな体験、そして探求を通して、当然のこととして捉えています。

 ヘンな表現かもしれませんが、わたしは自分のことを「霊的現実主義者」だと思っています。

 「供養ができたという確信を得たい」という願いは、令和元年12月の末、元精神科医日蓮宗僧侶の斉藤大法上人と出会い、大法上人に師事したことにより叶うこととなりました。

 このことで、亡き人がわたしに口をきいてくれるようになったわけではありません。わたしの唱えるお題目に亡き人の思い、状態が映じてくるようになったのです(もちろん、すぐにではありませんが)。

 と言っても「ほんとうにそんなことってあるの? あなたの思い込みなんじゃない」と思う人も多いでしょう。最初はわたしも思い込みではないかと思っていました。ですが大法上人の許で唱題供養の体験を重ねるうちに、その思いは変わっていきました。

 頼まれて、ある故人の唱題供養をしたら、最初、呻くような大変に重たく暗い唱題となったけれど、供養を重ねることで落ち着いた穏やかなものとなったが、供養を終えた後に、その故人の人生が波乱万丈で悲壮なものであったことを知った。

 そのように前回の記事に記しましたが、今は唱題供養の体験を重ねて、多くのこのような事例と遭遇し、唱題という明鏡に亡き人の思い、姿が映し出されるということを真実であると受け止めています。

 ひと言、誤解のないように書き添えておきますが、この供養はわたしの力によってなされるものではありません。この世に残された人の故人の幸せを願う祈りに応えて、本源のいのち、妙法によってなされるものです。