体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

ただ、今、ここに在る幸せ

 努力することこそが幸せになる道だと思って、日々、勉強や仕事に一兆懸命に励んでいる。でもいつも十分な成果が得られず、焦燥感に駆られ、不安なく今に安らぐことができない。

 そのような思いで生きている人は多いのではないでしょうか。そのような人には、努力してなにかを得ることではなく、「今」とどう向き合っているか、その姿勢に目を向けることをお勧めしたいと思います。

 S君は進行性筋ジストロフィーに罹っている中学生。これは、筋肉が破壊されていき、走ることができなくなり、歩くことができなくなり、鉛筆や箸を持つことができなくなり、しゃべることができなくなり・・・死に至る病です。彼は、医師からそう長く生きられないだろと告げられました。

 理想とする仕事に就いて活躍し、充実した人生を送るといった十代の少年が思い描く夢は、S君とっては実現不可能なものです。未来に向かって何かを達成し、何かを得ていくという道は閉ざされています。

 S君は自分がこの病に罹っていると知ったとき、絶望の淵に沈みました。ですが、彼はずっと絶望の中にいたわけではありません。

 椅子に座って机に向かうことができなくなれば、ベッドの上で勉強を続けました。教科書を持って開くことができなくなれば、お母さんに開いてもらい勉強を続けました。

 S君には未来が開けているわけではありません。ですが彼は、常に今、自分にぜきることを精一杯、全力で為したのです。そのことで彼は今生きているという充実感を得、この充実感を持ちながら、あの世へと旅立っていきました。

 何かを得ること、達成することに重きを置くのを生産価値重視の生き方ということができます。いっぽうS君のように、今、現実とどう取り組みかに重きを置くのを態度価値重視の生き方ということができます。

 物質中心の競争社会にあっては、圧倒的多数の人が態度価値ではなく生産価値を重視して生きているといってよいでしょう。それが現代人の不安、ストレスの大きな要因であるのではないでしょうか。

 今を精一杯生きている自分を認めてあげる態度価値重視の生き方が幸せにつながる生き方なのではないかと思っています。

 子どもの成績が伸びたかどうかではなく、日々努力して勉強している姿勢を大切にし、ほめてあげる親や教員は、生産価値ではなく態度価値を重視しているといってよいでしょう。

 では、ダラダラと怠けていたり、素行が不良であったりする子には何の価値もないのでしょうか。

 そのような子をダメな子だという大人がいます。「あいつはクズだ」といったりする大人もいます。

 わたしは教員時代、このような子とも出会ってきましたが、わたしはその子たちに対して学力でも生活態度でもなく、その子の存在そのものに価値を置いて向き合ってきました。

 法華経に登場する常不軽菩薩はどのような人に対しても敬いの合掌をしていましたが、この菩薩は、わたしに存在価値というものを教えてくれました。この価値観によれば、ダメな子、クズのような子は一人もいないということになります。存在そのものが尊いというのが法華経のメッセージです。

 生産価値から態度価値へ、さらには存在価値へと価値観を転換することが幸せへの道筋だとわたしは考えています。

 次回のブログでは、存在価値というものを掘り下げて考えてみたいと思います