闇バイト強盗事件の報道を見て、実行犯や指示役について「許せない!」と憤りを感じている人は多いでしょう。
「人はみな仏の子。誰もが尊い」という法華経のメッセージを聞いて「凶悪犯も尊いと言うのか。そんなのは、そらごと、きれいごとにすぎない」と言う人もいるでしょう。
法華経には誰に対しても「あなたを敬います」と言って合掌する常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)が登場します。常不軽菩薩の合掌を但行礼拝(たんぎょうらいはい)と言います。
強盗を働いた若者に敬いの気持ちを持って合掌することは普通では考えられませんよね。ですが、常不軽菩薩が現代に生きていたら、凶悪犯罪を犯した人間に対しても合掌することでしょう。
法華経は難信難解(なんしんなんげ)の法(信じ難く理解しがたい教え)だと言われますが、まさに不軽菩薩の但行礼拝は難信難解と言ってよいでしょう。
*足の指で大千世界を動かして他の国へ投げ飛ばす。 *枯れ草を背負って大火の中に入って焼けない。
以上のようなことの方が法華経を信じ理解し広めることより易しいというのです。
法華経は日常の意識レベルで読んだのでは、まず理解できない経典です。経典というのはみなそうであるのかもしれませんが、古来、法華経は特に難信難解であると言われてきました。
凶悪犯と向き合って心から合掌する。この信じ難いことを実際にされている日蓮宗の教誨師(きょうかいし=刑務所で受刑者に対して教育活動をする僧侶)をわたしは知っています。
なぜそのようなことができるのか。それはこの教誨師の僧侶が南無妙法蓮華経を唱え続けた結果、無分別智に目覚めたからです。
私たちは分別知をもって日常生活を営んでいますが、この分別知の意識レベルでは闇バイト強盗事件の犯人を許すことはできません。これは当然のこと。犯人は逮捕されるべきでしょう。
私たちは、通常、何か良きものを得るために、まじめに一生懸命に努力して生きることに価値を置き、そうではない生き方を否定します。特に他者を傷つけても平気な生き方には怒りを覚えます。
仏教者は、分別知を無視したり捨てたりするわけではありませんが(分別知も大切です)、これを超えた無分別智の意識レベルに目覚める道を歩みます(分別知・無分別智については拙著『14歳からの南無妙法蓮華経ー生きる勇気が涌き出る本ー』で詳述しています)。
無分別智に目覚めると、すべての「存在そのもの」に価値を置く生き方に価値観が転換されていきます。
但行礼拝ができるかどうか。このことで、かたちだけではない、無分別智に目覚めた本当の南無妙法蓮華経が唱えられているかどうかが分かると言ってよい気がします。
分別知を超えるのは、そう簡単なことではありませんが(簡単に超えてしまう人もいるようですが)、これができると真に安らいで生きることができるようになります。