今、勉強を教えている小学3年生の男の子と休憩時間にトランプの色当てゲームをしています。
わたしはトランプをシャッフルして、彼に見えないようにして一枚を引き、ハートかダイヤなら赤、クラブかスペードであれば黒と彼に想念を送ります。テレパシー訓練と言ってもよいでしょうか。
当たる確率は通常なら50パーセント。10回行えば正解は5回ということになります。彼とのゲームでも初期の平均正答率はそのようなものでした。ところが、わたしが次のようなことを告げてから、変化が生じたのです。
「これはいくら考えても当たるものじゃない。赤が二回連続して出たから次は黒だろうと予測しても外れることがあるよね。何も考えないで、君が空っぽのコップになったとイメージしてみて。ジュースも牛乳も入ってない、きれいな空っぽのコップだよ。そのコップにわたしが「赤だよ」または「黒だよ」という思いを注ぎ込むから、コップになった君はそれを受け止めてね。ただ、受け止めるだけ。考えちゃダメだよ」
こうわたしが告げてからの的中率は驚異的に上昇しました。
言葉を介せずとも思いは伝わるということを感じている人は少なくないのではないかと思いますが、わたしはこのことを事実であると認識しています。
ただしこのゲームでは、送り手と受け手との間に信頼関係がないと思いは伝わりません。当たったとしても、まぐれ当たりということになります。
受け手が伝え手を信頼していないということは、コップにフタをしてしまっているということ。これでは思い(想念)は外にこぼれてしまいます。
受け手はわたしを信頼し慕ってくれている小学生。ですのでスムーズにわたしの想念をコップになった彼に注ぎこむことができるのです。分別知の働いている大人の場合は、こううまくはいきません。素直に空っぽのコップになることができませんので。
このゲームを私の弟子、ケンタロウ(ブログ記事「鎌倉での供養」に登場した高校3年生です)と行うこともあります。彼とする場合はゲームではありません。お題目、南無妙法蓮華経を唱える修行の一環です。
「えっ、トランプの色当てとお題目の修行といったいどんな関係があるの?」そのような疑問を読者が持つのは当然のこと。説明をしましょう。
わたしは僧侶としてお題目を唱えて供養をしていますが、その際、いつもこう感(観)じています。
「わが唱えるお題目はわがお題目にあらず。妙法(みほとけ)の唱えるお題目なり」
わたしの力で供養をしよう。そう思っても御霊(みたま)は変わりません。わたしの自我は無力です。わたしは僧侶である。長い時間修行を積んできた。法華経についての深い知識を持っている・・・。このような自我の思いが入り込むと、どんなにお題目を唱えてもその思いに阻まれて、御霊がみほとけの光で照らされ、その光で満たされることはありません。
自我を捨てて、空っぽにならないと、わたしという器(うつわ)に、みほとけの光は入って来ないのです。「自我」は、わたしという器に入っている石ころや泥のようなもの。これをどけないと器をみほとけの光で満たすことは出来ません。「自我」が器のフタになってしまっていることもあります。これではまったく光が入りません。
この原理を教えるためにケンタロウとトランプの色当てをしているのです。これは自我の思考を止めて器となる修行です。
ケンタロウは17歳、大人に近い年齢ですが、苦労せずして自我を消せる感性を持っています。ですので私の思いを受け入れる良き器となり、連続して8回、色を的中させることもあります。
これはケンタロウとの信頼関係が築けている証でもありますが、わたしは責任の重さも感じています。それは、わたしの思いが乱れたり濁ったりすると、感受性の細やかな彼は、わたしの身近にいると、もろにその悪影響を蒙ってしまいまうからです。弟子を持つのには覚悟が要ります。
さて、言うまでもないことですが、ケンタロウがお題目を唱えて器になり、そこに満たすのは「わたしの思い」ではありません。「みほとけの光」です。ケンタロウが空っぽな器となってみほとけに自我を明け渡し、みほとけの光を受け入れるとき、供養される御霊(みたま)はその光明に照らされて浄化、救済されていきます。
みほとけの器になることができると、自らの内からコンコンとお題目が涌き出て来るようになります。みほとけのいのちは自らの内にあるのです。光の器となり、そして、いのちの水が涌き出る井戸となる。それが本当にお題目を唱えるということであるのです。
これからのケンタロウの課題は、みほとけへの絶対的な信を深めて、みほとけの光を容れる良き器となることです。
求道者、修行者の多くは、自我を磨くことに努め、「この私が、みほとけに協力し、みほとけを助けて御霊の供養、救済をするのだ」と思い違いをしています。
お題目を唱える修行では、全身全霊でお題目を唱えますが、これも一切の計らいを捨てて自我をみほとけに明け渡すことではなく、「この私が一生懸命唱える」と自我を強めることに全身全霊になってしまっていることがあります。
仏道修行の極意。それは、みほとけの光を容れる空っぽの器となることです。