わたしが日常、接しているのは、普通の人たちです。人を強く憎んで呪ったり、ひどい暴力をふるったり、詐欺行為や働いていたり、・・・といった人との接点は、今のところはありません。
教員時代のある日、昇降口で雨宿りをしている男子生徒に「傘を貸してあげようか」と声を掛けたら、彼はこう答えました。「大丈夫です。組の者が迎えに来ますから」
「エッ、組の者・・・。ひょっとして、お父さんは怖い世界の長(おさ)?」と思ったら、彼の父親は、土建会社○○組の社長で、会社の社員が迎えに来ました。
ごく普通の人たちに囲まれてわたしは生きていますが、供養させていただくあの世の方々については、そうではないこともあります。
ある御霊(みたまは)の供養時のことです、お題目、南無妙法蓮華経をあげると、「うるさい、やめろっ、やめろっ!」という激しい怒りの念が、唱えるお題目に映じてきました。
遺族に訊いてみると、故人は人を傷つけることをなんとも思わない、反社会的な勢力の中にいたことのある人だったとのことでした。
ですが日々供養を続けているうちに、激しい怒りは、穏やかな思いへと徐々に変化してしていきました。お題目を嫌悪する御霊の中にも仏性(仏としての本質)があるのです。仏の光に照らされて、仏性が顕われてきたのでしょう。わたしにとっては、よい修行となりました。
普通の人たちの供養に、激しい怒りや憎しみは映じてきません。ですが唱えるお題目が暗く重たいものであることは、しばしばです。後には、仏の光に照らされて、明るく軽やかなものになってはいくのですが。
自分に酷い仕打ちをした人、それは親、姑、嫁、友達、教員、上司・・・など様々でしょうがが、そのような人を完全に許して生きている人は、ほとんどいないと言ってよいでしょう。普通の人。それは、悲しみ、怒り、寂しさ・・・、そして許せない思いを抱えて生きている人のことであると思います。
今の心がそのまま死後に持ち越されていきます。ですから、普通の人の葬儀時の供養に、最初から明るく軽やかな状態がお題目に映じてくる御霊が少ないのだと思います。もちろんその暗さ、重さにはさまざまな程度があり、それが希薄な御霊もありますが。まれに本当にきれいな御霊があるのも事実です。
わたしは日々、信徒さん、あるいは道を求める人と接しています。その中で「許せない」という思いから解放されていると感じるのは、高校生の弟子、ケンタロウくらいでしょうか。ですが「彼のようになりましょう」と言われて、すぐにそうなれるわけでもありません。
ただ、「今のこの私の思い」を持って、あの世に行くのだと言うことを、しっかりと認識して生きることは大切であると思っています。「死後の生」の実態を知ると、「あの人を許せないのは、人として当然のこと、普通のことだ」といったようなことは言えなくなると思います。
死後の平安を願うのであれば、今の自分の心をきれいにしていくことが不可欠です。仏教はそのための方法を持っています。
「心をきれいにしましょう」とわたしが言うと、「お坊さん、立派そうなことをおっしゃいますが、そういうのをきれいごとと言うんですよ。恨みも憎しみもあるのが人生っていうものでしょう。」と反論する方もいらっしゃります。
ですがそう言う方も、普通の人の死後の真実のありようを知れば、この言葉をひっこめると思います。
多くの「普通の人」が「普通」を超えて、こころをきれいにしていけば、間違いなくこの星の意識レベルは上がるはずです。
また強盗を働こうとするような普通ではない人にも、死後の真実を伝える必要があるでしょう。このことは犯罪の抑止にもつながると思います。他者を傷つけて、なんとも思わない人の死後が明るく軽やかであるはずがありませんから。
死後も人は生き、決して死ねばすぐに心が浄化されるわけではない。この真実を多くの人にお伝えしていきたいと思っています。