体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

許す

 「あなた、食器を洗ってくれるのはいいけど汚れが残ってるわよ。かえって迷惑だわ」「どうして本棚に無造作に本を横に積むの。ちゃんと立てて並べなさいよ」・・・。妻にとってわたしの行動がお気に召さないことは、しょっちゅうのことのようです。ささいなことだけではありません。亡き母の介護など、大きな問題でもそのようなことがありました。

 43年間、わたしは彼女の夫を続けてきましたが、妻に許されてここまで夫としてやってこれたのだと実感しています。

 結婚したての頃は愛し合って夫婦をやっていたのが、歳を重ねるうちに,許し合って夫婦をやっていると感じるようになりました。

 国際紛争から家庭内戦争に至るまで、平和に生きるために必要なのは許し合うことなのではないでしょうか。

 さまざまな争いの火種の大きな要因の一つは、宗教なのではないかと思います。キリスト教徒とイスラム教徒は、許し合うことができずに対立し、日々多くの命が奪われています。

 命が奪われることはありませんが、夫婦間でも宗教観の違いについて許し合うことができず、諍(いさか)いが生まれることがあります。

  わたしは一僧侶として、自らの宗教体験をもとにして文章を書いていますが、他者の信じる自由を奪うことをしてはならないと思っています。わたしの信仰を否定する人に対して「許せない」という思いを抱いてはならないとも思っています。

 わたしの体験、そして体験による思いを否定したりい疑問に思うのは、まったく読者の自由です。「死後の世界なんてあるわけないじゃない。あなたは自分の妄想を真実だと思い込んでいるんじゃないの」という人に対して「何を言ってるのですか。死後も人が生きるのは絶大的な真実です!」と言うつもりはありません。

 「わたしが僧侶として言っているのは絶対、当然のことです」とわたしが言い出したら要注意です。私の言っていることを信じれば救われます。もし信じないとしたら・・・」と読者を囲い込もうとしたり脅したりしだしたら、これも要注意です。このようなことを、わたしがし出したら、読者はこのブログから即刻、立ち去るのが賢明でしょう。

 「常に他者の内に宿る光を見出して行き(生き)なさい」そのようなメッセージを今日、ご本尊の前でお題目を唱えていて受け取った気がしました。これは他者を許すことなくしてできることではありません。

 この世を生きている限り、他者との意見の対立は生まれます。その対立する人を「許せない」と思うのではなく、その人の内に在る仏性(光)に合掌するのが仏道を歩むということであると、ご本尊は教えてくださったようです。