「すがる」がしっくりとくる天部の神々への信仰 ー 対神関係について ー
日蓮聖人のお題目信仰や、親鸞聖人の絶対他力のお念仏信仰に「すがる」という言葉を用いることに違和感を感じると書いてきました。
ですが、まさに「すがる」という言葉がしっくりとくる信仰があります。それは天部の神々への信仰です。
天部の神とは仏法守護の神。具体的に言えば、大黒天、毘沙門天、弁財天、龍神、お稲荷様などが天部の神です。
お稲荷様は一般に神道の神だと思われていますが。仏教系のお稲荷様もあり、その神名は正式には荼吉尼天(ダキニテン)といいます。
ちなみにお稲荷様を祀る社寺の境内で見かける狐さんは、神の眷属(お使い)で稲荷大神そのものではありません(とはいうものの日蓮宗には白狐そのものを天部の神としてお祀りしている熊谷稲荷というお稲荷様も存在します)。
天部というのは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道の頂点に位置する世界で、その上に仏の世界があります。天部の神は仏ではないので、人間が粗末に扱えば怒ることもあります。ですが心からリスペクトして、事業がうまくいきますように、恋愛を成就させてください、試験に合格できますように・・・とお願いをすれば力を貸してくださいます(もちろん「棚から牡丹餅信仰」ではダメですが)。
天部の神への信仰のポイントは、敬いとおすがりです。この二つが心からのものであれば、天部の神は動いてくださいます。
天部の神にはそれぞれ得意分野があります。たとえば聖天(ショウテン)様(正式名称は大聖歓喜天・ダイショウカンギテン)は7代の富を一時に集めてしまうと言われている、すごい財をもたらしてくださる天部の神です。
ですが、この記事を読んで「では、自宅に聖天様をお祀りしてみよう」などと安易に思わないでください。それは危険なことです。聖天様は大変に厳格で荒々しい神様なのです。中途半端にお祀りすると怒りに触れることとなります。
作家で天台宗の高僧であった今東光(こん・とうこう)師は、『毒説日本史』につぎのよう書いています。
「大阪の四天王寺にも聖天堂がありますが、あそこの坊主は目をつぶって前を通りよる。それほど天部は怖いものです。今どきの人が聞くと不思議ですが、こりゃ体験してみないとわからないかもしれない・・・」
聖天信仰をしているある実業家は、こう言いいます。
「事業資金としてどうしても百万円が必要なときには、聖天様に『二百万円、お願いします!』って祈るんです。それで二百万円が手に入ったら、百万円は聖天様にお礼として差し上げるんです」
この実業家の会社は順調に発展していています。それは、この実業家が失礼なきように正しく聖天様をお祀りして敬い、心からおすがりをしているからでしょう。
聖天様に限らず、天部の神は、心を込めて徹底的にお祀りするのならよいのですが、おろそかに祀るくらいなら、祀らない方がよいのです。
わたし自身の日々の祈りの対象は、永遠の仏陀(久遠実成の釈迦牟尼仏)ですが、自分の傍に天部の神の気配を感じることもあります。
天部の神を身近に感じた際、わたしは、敬いの思いを持って接しますが、その神にすがることはしていません。その神に対して「仏の世界に向かって共に修行してまいりましょう」という思いで向き合い、南無妙法蓮華経を唱えています。その神の光がさらに増すようにお題目を上げることもあります。すると、天部の神は必要に応じて、すがらなくても応援をしてくださるようです。
ご供養の唱題をしていると、静かで澄んだ唱題、朗々と歌うような唱題・・・といったように唱題が自ずと変化していくことがありますが、このとき天部の神が降りていらしたことを感じます。このことで、ご供養している御霊(みたま)は浄化し、導かれて上がっていくようです。
言うまでもなく、この世を生きる上で対人関係は重要ですが、わたしは、対霊関係、対神関係も視野に入れて生きることで、さらに人生は豊かなものとなっていくと思っています。
天部の神との関係は、この世における医師、弁護士といった人との関係に近いとこがある気がします。天部の神は、わたしたちの高みにありますが、まだ仏にはなっていないので、何かをお願いするのなら、こちらから積極的にリスペクトして信頼関係を築いていくことが必要なようです。
わたしは、対霊関係、対神関係の根っこにあるのが、仏という大いなるいのちに抱かれているという信仰であると感じています。
どのような大樹も根っこが弱っていたのでは、嵐に遭った際、倒れてしまいかねません。仏への信仰の大切さを思わずにはいられません。
海に抱かれて ー 言葉遊びを超える ー
宗教体験を言葉にするというものは、難しいものです。
「如来にすがる」、「本尊にすがる」といった表現の「すがる」に違和感を覚えるということを、前にブログに書きました。これについて「私は違和感を覚えるということはありません。神仏という大いなる存在に『すがる』ことによって安らぎを得るのが信仰でしょう」という人もいます。
確かにそういった信仰を持っている人は多くいると思います。
わたしは、信仰とはすがることではないと、強固に主張しているわけではありません。ですが自らの唱題体験を語るのに「妙法蓮華経にすがる」と表現することには大きな違和感があります。
唱題をするにあたってのわたしの思いは、妙法蓮華経に「すがる」というよりも「まかせる」、「ゆだねる」と言った方ががしっくりします。いやそれよりも「明け渡す」といった方がよいのかなという思いもあります。
海の上で浮くためには、力をいれるのではなく、身を投げ出して海に身をゆだねるしかありません。流れの速い川に落ちた時は「藁(わら)にもすがる思い」になるでしょうが、海の場合は、すがるのではなく海に身をまかせれば沈むことはありません。
これを「海と一つになれば沈まない」と表現することがありますが、これは人が溶けて海水になってしまうわけではありません。ベテランサーファーが海上に在る様子を「海と一つになっている」と言いますが、一つになるとはこの感覚です。
宗教体験をした人が、神仏と「一つになる」とか「合一する」と言うのは、この感覚に近いのではないかと思います。
わたしは、唱題時、御仏(みほとけ)のいのちという大いなる海にすがるのではなく(海にすがっても浮かびません)、身を投げ出して海に抱かれているいった感覚でいます。無念無想になるのではなく、唱題中、ずっとこの感覚は続いています。この感覚は、大いなる海、御仏への「信」と言ってもよいかもしれません。
昨日、主宰している仏教の勉強会で、男性メンバーの一人と「すがるのか、ゆだねるのか」といったことについて議論しました。わたしは、「『広辞苑』、『大辞林』には「すがる」についてこう記されています」などと辞書の定義まで持ち出して「すがる」についての違和感を語りました。
この議論からこの記事は生まれ、このような議論はわたしにとってはありがたく、好ましいものであるのですが、勉強会の他の一人の男性メンバーに、この議論について「あなたは、どう思います?」と訊くと、彼は笑いながらこう答えました。
「言葉遊びをしているんですね」
このメンバーが亡くなった時にわたしが生きていたら、彼の葬儀で導師をつとめる約束をしているのですが、「言葉遊びをしている」という感想を首肯して、わたしは彼にこう言いました。
「あなたの葬儀でわたしが唱題した時、あの世であなたから『小島先生のお題目は、南無妙法蓮華経という言葉をただもてあそんでいるだけで、ぜんぜんたましいに響いて来ませんよ』と言われてしまうかもしれませんね」
何よりも大切なのは、信仰を言葉にすることではなく、全身全霊で南無妙法蓮華経を行じていくこと。そう勉強会を終えてしみじみと思いました。
「言葉遊びをしているんですね」と言ったメンバーの葬儀では、彼から笑われないように、ご本尊に身を投げ入れ、ご本尊と一つになった全集中の南無妙法蓮華経を唱えるつもりです(彼は私より15歳以上年長ですので、きっとわたしは彼の葬儀で唱題供養をすることになるでしょう)。
キリスト教に近いのは、浄土真宗ではなくて日蓮宗?
tikaintikain
『歎異抄・第9章』を読むと、唯円が師の親鸞聖人にこんな質問をしていることが分ります。
「南無阿弥陀仏を称えていても喜びの心が涌き上がってきません。どうしてでしょうか?」
この問いに対して親鸞聖人は「私にもこの不審があったのだよ」と答えています。そして次のように言います。
天に踊り地に踊るべきところを喜べないのは、煩悩のせいだ。煩悩深い者を救うのが仏であるのだから、喜べないことによって、いよいよ往生は確実であると思いなさるべきである」
罪悪深重の凡夫が阿弥陀如来を信じることよって救われると説く親鸞聖人の浄土真宗は、原罪を負った人間がイエス・キリストを信じることによって救われると説くキリスト教とよく似ていると宗教学者は言います(両者とも救済宗教と呼ばれることがあります)。
ですがそう聞くと、わたしには「ちょっと違うのでは・・・」という思いが涌いてきます。『聖書』の「テサロニケの信徒への手紙・第5章」には「いつも喜んでいなさい」と記されています。
クリスチャンは「聖霊に満たされる喜び」を語ります。聖霊に自己を完全に明け渡すことによってこの喜びは得られるといいます。
これは、いつも欣喜雀躍しているということではないでしょう。それは不可能なことです。いつも静かな喜びに満たされて在ることを言っているのだと思います。ときには大きな喜びに満たされることもあるでしょうが。
この喜びは、南無妙法蓮華経を唱えているわたしにはよく分かります。ご本尊、妙法に自己を明け渡すことによって、同様の喜びが涌き起ってくることを、わたしは体験してきました。
「自己を明け渡すこと」によって得られる喜びというのは、クリスチャンにとっては、「復活のイエスが、私たちの内で、私たちを通して生きている」ということを実感することなのでしょう。
これは、南無妙法蓮華経を唱えることによって、自己の内から御仏(みほとけ)のいのちがコンコンと涌き出てくる喜びと同質のものである気がします。
キリスト教の祈りや仏教の唱題は、神や仏に「おすがりする道」ではなく「合一する道」であるといってよいと思います。
言うまでもなくわたしは煩悩に満ちた凡夫ですから、妻と口論して落ち込んだり、孫子や教え子が病気をすれば不安に駆られたりします。ですが心の底には、いつも通奏低音として「しずかな喜び」が流れています。南無妙法蓮華経を口に出して唱えれば、この喜びが涌き出してきます。南無妙法蓮華経の力を感じずにはいられません。
なぜかわたしは『浄土三部経』ではなく『法華経』に『聖書』の薫りを感じます。「法華経・如来寿量品第16」に登場する久遠実成の本仏・釈迦如来(永遠の仏陀)にキリスト教の神の匂いを感じます。これはあくまでも個人的な思いですが。
わたしは、喜びに満たされた仏の道を周囲の方々と共に歩んで行きたいと思っています。
『14歳からの南無妙法蓮華経』を自ら買う中学生は、まずいないでしょう
二十数回にわたって、途中に別の記事も挟みながら「14歳の君へ」を連載してきました。まだ書き加えなければいけない内容もあるのですが、これをまとめて『14歳からの南無妙法蓮華経』という一冊の本にするための作業に入りました。副タイトルは「生きる勇気の涌き出る本」です。
どのような判型にするのか、イラストはどうするのかなど、編集者と打ち合わせをすると同時に、連載のはじめから読み返して、手直しをする作業にかかっています。
『14歳からの南無妙法蓮華経』という書名の本を自ら購入する10代の若者は、まずいないでしょう。
わたしは、小学校高学年のころから『大法輪』と言う仏教の月刊誌(現在は休刊中)をよく意味も分からないままに開いていました(この本を買いに行くと本屋の店番のおばあちゃんから「えらいねぇ。お祖父ちゃんのお使いかい」と言われました)。
ひょっとしたらごく僅かな、わたしのような変わり者の少年が買ってくれるかもしれませんが、まったく期待はできません。
そのことは編集者も承知しています。ではなぜ刊行するのか。一つには「南無妙法蓮華経を日ごろ唱えているけれど、それがどういう意味を持つものなのか、詳しく知りたい」という大人がいるであろうということがあります。住職がそのような檀信徒にこの本を紹介してくれるということもあるかもしれません。
どの宗門も、寺離れ、墓じまいといった問題に直面していますが、宗門、僧侶や熱心な仏教徒は、若者が仏教に関心をもってくれるのは大歓迎でしょう。お祖父ちゃん、お祖母ちゃんや親がこの本を孫や子に「読んでみて」と手渡してくれるかもしれません。これも刊行の理由の一つです。
「生きる勇気の涌き出る本」という副タイトルに、生き辛さを抱えている若者が注目してくれたら嬉しいなと思っています。
かなり大げさに言えば、この本がお題目の信心のリバイバル(信仰復興運動)の契機になればいいなとも思っています。
ということで、わたしの所属する宗門の関連している出版社で刊行する予定です。これから編集にかなりの時間を要すると思いますが、わたしが息切れしてダウンしない限り、みなさまに刊行のお知らせをすることができるかと思います。
よく「中学生にも分かるように読み易くしたいと思います」と語る執筆者がいますが、この本は、中学生にも分かるように読み易く「したい」ではなく「しなければならない」本です。そこが難しいところですが、教員経験を生かして、なんとか完成させたいと思っています。
霊能と霊性は比例しません
「宿泊するホテルの部屋に入った途端、何か嫌なものの気配を感じて、わがままは承知の上で、特に理由を言わずにフロントで部屋を替えてほしいと頼んだんです。そうしたら、あっさりと応じてくれたんです」。
こんな話を何人かの知人から聞いたことがあります。嫌なものというのは、端的に言えば霊です。いわゆる霊感ある人は、ホテルや旅館の部屋で霊的な存在を感じてしまうことがよくあります。
嫌なものの気配を感じる部屋というのは、自死があったりした部屋です。
ホテル側は、このような場合、自死があったりしたことは一切触れずに「承知いたしました」と応えるのがマニュアルとなってるようです。
フロント係が部屋替えを断って、宿泊客から「実は、霊がいるようで怖いんです。何とかなりませんか」などと言われたら「それは思い過ごしでは」と言うわけにもいきません。変な噂が立つことを避けているのでしょう。
霊感のある人は、霊に遭遇した場合、どう対応してよいか分かりません。個々の状況に応じて、霊としっかり対応できるのが霊能者(霊的能力者)です。
もっとも霊能者には、精神を病んでいて「自分には霊能がある」と思い込んでいたり、霊能があるふりをしているだけの人もいます。多少の霊感があるだけなのに霊能者だと自称している場合もあります。
玉石混交ではなく、圧倒的に石が多いのが霊能者の世界です。ですが玉が存在することは紛れもない事実です。わたしは複数の本物の霊能者と出会ってきました。今でも親しく交流している霊能者がいます(霊能者と出会って体験したことは、またいずれ記すことがあるかもしれません)。
『ムー』というオカルト雑誌を愛読していて、霊能者になりたいと思っている男子の教え子がいました。彼から「どうしたら霊能者になれるのでしょうか」と真面目に質問されたことがあります。これも一つの進路相談でしょうが、多くの先生は、このように言われたら絶句するでしょう。
霊能者を養成する大学の学部も専門学校もありません。知り合いに信頼できる霊能者がいる先生もまずいないでしょう。彼がわたしに相談したのは、わたしが授業中の余談でスピリチュアルな話をすることがあったからのようです。
その教え子に霊能者の世界を志望する理由を訊いてみると、一言でいえば「自己顕示欲求を満たしたい」ということのようでした。
彼は多少の霊感があり、霊的世界を感受していましたが、この力を高めて多くの人々から敬われるようになりたいと考えているようでした。小学生の頃にいじめに遭った経験があり、自分をバカにする人間を見下してやりたいという思いもあるようでした。
霊的能力というのは簡単に得ることができるものではありませんが、他者への慈しみがなく、ただ霊的能力を得たいという彼が、実際にその力を得たら、それは小さな子どもがライターや刃物をもったようなもの。他者を傷つけるだけではなく自分も大きな傷を負いかねません。
霊能の前にまず霊性を高める努力をしないと、神仏とは響き合わず、次第に低次の霊的存在から使われるようになっていきます。
霊性とは、キリスト教の世界にあっては「聖霊によって、神との深い交わりを生きる在り方」ですが、一般的に「理性を超えた智慧と慈悲に満たされて生きる在り方」のことを言います。
霊能がある人ほど霊性も高い。そう思っている人もいるようですが、これは誤解です。わたしは、まがいものではない真の霊能を持ちながら霊性が高いとは言い難い霊能者とも出会ってきました。そのような霊能者は名声を得ているとしても、人生の最後は推して知るべしです。
わたしは霊能開発の道を歩もうとする若者には、ぜひ仏道を歩んでほしいと願っています。仏道を歩む上での深まりと霊性は、まちがいなく比例しています。
哲学者は知らない
『13歳からの地政学』、『14歳からの宇宙論』・・・といった「13歳からの~」あるいは「14歳からの~」というタイトルの本が多く出版されています。そこには、未来の世界を創る、多感な時期の子どもたちに、自分の専門分野のことを正しく分かりやすく伝えたいという筆者の思いが込められているのでしょう。
池田晶子さんの『14歳からの哲学』の「死をどう考えるか」という項目を読んで、十代の若者に死について、きちんと伝えておかなければと強く思いました。
わたしは『14歳からの南無妙法蓮華経』の刊行を思い立ましたが、その執筆理由のひとつに「死後の生」について若者に伝えたておきたいということがあります。
『14歳からの哲学』の副タイトルは「考えるための教科書」です。帯には「人は14歳以降、一度は考えておかなければならないことがある」と記されています。
たしかに考えることは大切です。深く考えずに生きていて、カルト宗教の罠にはまってしまう若者もいます。
ですがわたしは、死について考える前に死後の存在を感じてしまう十代の若者と少なからず出会ってきました。亡き人の存在をはっきりと感じる、霊が視える・・・。そういった体験を持つ若者たちと出会ってきたのです。
そのような若者は、肉体亡き後もいのちは存続しているということを、事実として認識しています。
「霊が視えるなどというのは、脳の機能に問題があったり心を病んだりしているからでしょう」という人もいます。ですがまだ少数ですが、死後の生命持続ということを前提として、治療にあたっている精神科医がいます。
精神科医で高名な深層心理学者であるユングも公には語っていませんが、霊の存在を認めていたようです(このことを公表しなかったのは「ユングはおかしくなってしまった」と批判されるのを恐れたからのようです)。
霊を感じるという現実に直面しながら、ウソつきだとか精神に異常をきたしていると言われるのを恐れて、人知れず悩んでいる若者に、わたしは死の問題について「よく考えてごらん」とは言いません。考えても問題は解決しないからです。
わたしは教員時代、ひとりの音楽部の女子生徒から音楽室に霊の気配を感じるという相談を受けたことがあります。勉強のできる真面目な生徒でした。わたしは彼女からその状況についてよく話を聴き、教職員がみな帰宅した夜の校舎で、供養の読経をしました。
この時は、霊的感受性に優れた理科の青年教師、N君に傍らに居てもらい、供養後の状況を確認してもらいました(教員にも霊が視えたり霊を感じたりする人はいます。このことを自らオープンにすることは、まずありませんが)。
その後、音楽室から霊の気配は消えました。
映画『燃えよドラゴン』の中でブルース・リーは弟子に「考えるな、感じろ」と言いましたが、特に霊的な問題について相談された場合、わたしは、まず頭で考えるのではなく、心で感じるようにしてきました。
現在、僧侶として死者と向き合うにあたっても、頭を捨てて読経、唱題をしています。これは、理性を超えて霊性を発揮している状態といってもよいでしょう。
哲学者は、人には理性を超えた霊性というものが具わっているということを知らないようです。
哲学者、ソクラテスはダイモーン(神霊)の声が聞こえていたといいます。これは幻聴とみなされることが多いようですが、わたしは、ソクラテスは単なる哲学者ではなく、高い霊性を発揮した宗教的指導者であったと考えています。
修羅を生きる・その2
わたしは親族の中で変わり者だと言われてきました。父方、母方の祖父、父、おじ達は全員、経済界で生きてきて、教員になったのは、わたし一人。それも教員をする傍ら仏道修行をして僧侶になってしまいました。
妻と結婚する前に、ある百貨店の副店長を務めていた、おじの店に妻と家具を買いにいったことがあります。
おじは店内のレストランで食事を御馳走してくれたのですが、そのとき、わたしたち二人に向かってこう言いました。
「経済的に豊かに生きることはできないだろうけど、まあ、がんばりなさい」
率直に物を言う人でしたが、わたしたちは随分と助けてもらいました(お古の高級ネクタイをおじから何本も貰ったこともあります。ですがこれはどれもド派手で、教員のわたしが学校に身に付けていけるものではありませんでしたが)。
その後、おじは会社にとって経営陣の一人として、なくてはならない人となりました。ですが過労と酒の飲みすぎで60代前半で亡くなりました。亡くなる少し前、わたしは、このおじから「老子ってどういう人だったの」と訊かれたことがあります。
企業戦士として戦ってきたおじが「無為自然」を説いた老子に関心をもっていることに驚きました。
おじは流通業界の熾烈な経済戦争の中で、まさに修羅界を戦い抜いてきた人です。家庭を顧みず、がむしゃらに会社で陣頭指揮をとってきました。ある年、酒を飲んで朝帰りをしたおじから、おばはボーナス袋を「はい」と手渡され、中を見たら何も入っていないことがあったそうです。
おばが「中身は?」と訊いたら、おじはこう言ったそうです。
「銀座のバーで、がんばって働いてくれた部下たちをねぎらってさ、酒をおごって、一晩で全部使っちゃった」
隊長にとって戦場で戦う兵隊たちの士気を高めることは最重要であったのでしょう。
ですが、晩年のおじは、妻をとても大切にして生きていました。「妻にはすまないことをした」と思っていたようです。
晩年の老子への関心、妻への思いやりから、わたしはおじが、経済戦争の中に身を置いてきた人生を振り返って、成功を手中に収めたものの、自己の人生が充実した最良のものであったとは思っていないようだと感じました
この世での成功を思い描いていた大学時代のおじは、『老子』にはまったく無関心であったことでしょう。それが戦いに明け暮れる世界を生きていく中で、競争相手を倒し、ときには自らも傷つき、修羅界の虚しさ、寄る辺なさのようなものを感じるようになったのではないかと思います。
老子の説く道(タオ)は、法華経の世界の妙法と同様のものです。妙法とは、万物を万物たらしめている宇宙根源の法です。
多くの人は、物質の世界を中心にして生きていますので、妙法に関心を持っことはありません。「妙法にすがれば経済的な不安がなくなり、病気も治りますよ」と言えば、妙法に心を傾ける人が増えるでしょうが。このような人を、わたしは仏教的な物質中心主義者と呼んでいます。
修羅の気の強い仏教的な物質中心主義者は、僧侶に、敵とみなす人物を呪詛することを依頼したりもします。言うまでもなく、まっとうな僧侶は、その依頼をお断りしますが。
おじのような物質中心の人生行路を歩んでいる人は多いでしょう。そのような人に仏教者の端くれであるわたしは、どう向き合ったらよいのか。それは個々の状況によって異なりますが、「修羅の世界とは、まことに虚しいものです」と型通りのお説教をしても始まらないということだけは確かでしょう。
みほとけは、すべての衆生が仏になることを願っていますが、一定の人生行路を押し付けることはしません。どのような生き方も否定することはありません。
それぞれのたましいは、他のたましいとぶつかり合い、傷つけ傷つけられながら、物質を超えた真実の世界に目覚めていきます。
僧侶としてのわたしの為すことは、自らの唱題を深めつつ、縁ある人の傍らに立ち、みほとけの慈悲に促されて、縁ある人と向き合うことであると思っています。
おじは、もう少し生きていたら、『法華経』にも関心を持ったかもしれません。