体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

新しいかたちのグリーフケア ー 死後も人は生きています ー(1)

大切な人を亡くした深い悲しみ。それを癒すことをグリーフケアといいます。「グリーフ」は「悲嘆」を意味する言葉です。

昔はこの仕事を僧侶が担ってきたのですが、特に都会では菩提寺を持たない人も増えてきて、葬儀後、僧侶がグリーフケアをすることは減っています。

そのような状況の中で、一般社団法人・日本グリーフケア協会が設立され、グリーフケアアドバイザーという資格が生まれました。

日本グリーフケア協会のHPによると、グリーフケアアドバイザーの認定講座では、日本人の死別悲嘆の反応と悲しみを癒すアプローチ法について学び、身につけることを重点的に学習するとのことです。

時代がこのようなアドバイザーを求めているのでしょう。

今、僧侶の中にもグリーフケアを重視していこうという動きがあるようです。ただ二十代の若いお坊さんがこの活動をするのは、なかなか難しいかもしれません。それなりの年齢の僧侶でないと、遺族から信頼してもらえない可能性があります。我が子を亡くした親の悲嘆を、独身の若い僧侶が癒すのは困難である気がします。

そういった意味では、還暦をとっくに過ぎたわたしには適した活動かもしれません。わたしには自死した教え子の両親に寄り添った経験もあります。

実際、わたしはこれからグリーフケア活動をしようと考えているのですが、それは従来のグリーフケアとは大きく異なったものです。その違いは「死後の生」を前提としているという点にあります。

グリーフケアアドバイザー講座は、「死後も人の意識が存続すること」を前提とはしていません。多くの人が「死とは夢を見ない永遠の眠りに就くことである」と考えている社会にあって、これは当然のことです。

わが国では、僧侶も、宗派によってその比率は異なりますが、「死後の生肯定派」よりも「永眠派」の方が多数派です。

いっぽうでは近年、死後の個性の存続を認める人が増えてきているのも事実です。これは、ベストセラーとなった東大名誉教授の矢作直樹氏の著作『人は死なない』などの影響もあるのでしょう。

現代の日本では、高齢者よりも、むしろ若い世代の方が「死後の生」を認めているという調査結果があります。わたしは、教員時代、霊を感じる若い教員や生徒の相談に乗ったことがあります(彼らは決して精神や肉体を病んでいるわけではありませんでた)。

わたし自身は、2019年に要唱寺住職、斉藤大法上人のもとで唱題修行をはじめてから、唱題時に、死後も存続している意識、たましいを実感するようになっていきました。

要唱寺のHPには次のように記されています。

 

単なる儀式ではなく、

ほんものの

”たましいの供養”を

 

近年、葬儀など人の死後やたましいの事が、まるでベルトコンベアーの流れ作業のように扱われ、じっくり亡き方を思い、心を込めて祈る、ということが失われつつあり、そのために亡きたましいも残された人々の心も癒されないままに取り残されている感があるように思います。

私は、僧侶になってもしばらくは、以下のように考えていました。

そもそも ”霊は、あるのか?”

“無いとすれば、なぜ葬儀や法事をするのか? 無いのなら法事をする必要は、ないのではないか”
“あるとすれば、通常行われている法事などでほんとうに『霊』に届くような供養ができているのか?”
“どうあれば、ほんとうに『霊』が、成仏するのか?”
“以上のようなことが、わからないままに法事をすることは、虚しい”

これらの事を明らかにしたいと思い、修行を重ねた結果、

亡き御霊の状態が体現されるようになり、
読経や祈りを通して御霊が、清らかでとらわれのない意識へと変化し、
成仏を象徴する蓮華台に乗り浄土へとお導きすることが出来るようになりました。
さらに参加された皆様方の心からの祈りが、亡き方にどのように届いているかもわかるようになりました。

以来、要唱寺 住職 斉藤大法は、以上のような供養を行っています。

ただし、それは私の個人的な念力などによるのではありません。仏法(ぶつぽう)が持っている大いなる力によるのです。 そのことを通して、亡き方のみならず、祈る人も共に癒され、深い気づきと安らぎを得ることが出来る。それが、わたしが目指し行う供養です。

 

この大法師の「たましいの供養」を取り入れたグリーフケアを、わたしは行いたいと考えています。

もとより、わたしの唱題による祈りは未熟です。大法師のように、亡き御霊の状態が体現されるようになっているわけではありません。ですが唱題による祈りが「霊」に届いていることは、はっきりと実感できるようになっています。

有り難いことに、わが修行の師匠、大法上人は、わたしが「たましいの供養」を取り入れてグリーフケアを実践することをお許しくださいました。

このグリーフケアでは、供養に参加した人も僧侶(わたし)と共に、たましいの浄化を祈ります。このことにより、参加者は深く癒されて気づきを得ます。そして祈られたたましいも癒されて浄化していくのです。

この世を生きるたましいとあの世のたましいを共に癒していくのが、これからわたしが行っていこうと考えているグリーフケアです。

僧侶は、葬儀後の法要で「死んでお浄土へ往く」という法話をすることがあります。ですがこれは、遺族を慰めるための単なるストーリー(物語)であることが多いようです。

わたしが大法上人の指導のもとでたましいの供養をさせていただいていて、「お浄土」と呼ばれる世界に赴いたと感じるたましいは、まだありません。

2021年の暮れに亡くなった母は、大法師とわたしの供養で落ち着きを得て、今、穏やかな世界にいることを感じます。ですがそこは御仏(みほとけ)の世界、お浄土ではありません。

死後もたましいは修行の旅を続けています。年忌法要は、その先祖の浄化、向上を祈って営むものです。なかには浄化できず、暗いところでうずくまっているような、たましいもあります。僧侶として、たましいの供養の大切さを痛感しています。

この世の人と、あの世のたましいが同時に癒され、浄化されて深い平安を得る。そのような、今までにかかったグリーフケアをしていくつもりです。

関心のある方はお問合せください。

 

 

 

 

自己への信

わたしは唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)をしながら、自己への信を深めています。その信とは、「わたしの内には仏性(仏としての本質)がある」という信です。

唱題をし、この信を深めていくためには、小島弘之を捨てる(辞める)覚悟をすることが必要だと、前回の記事に記しました。

島弘之を捨てる覚悟をしなくてはならないのは、それに囚われていると、仏性そのものである本当の自己に出会えないからです。

わたしの職歴とか実績とか知能とか血圧とか血糖値とかは、小島弘之に深くかかわるものですが、それは上辺のわたしです。その奥にある、名前も性別も肩書も肉体も超えた「みほとけのいのちそのもの」としてのわたしこそが本当のわたしです。

それは、純粋意識、真我、大我などと呼ばれることもあります。わたしは唱題修行をしているうちに、この本当のわたしを感じるようになってきました。

こんな歌があります。

生きながら死人となりてなりはてて思いのままにするわざぞよき

「生きながら死人となる」というのは一見、謎のように思われますが、これは、上辺のわたしへの囚われを捨てるということを意味しています。「エゴを無くす」と表現してもよいでしょう。わたしで言えば「小島弘之を捨てる」ということにほかなりません。

そうすると、内なる、みほとけのいのちの力が現れ出てきて、感情に縛られることなく自由自在に生きられるようになると、この歌はいいます。「思いのままにするわざぞよき」というのは、そのような意味です。

前回の記事で紹介したように、白隠禅師は日常生活の中で「生きながら死人となる」ことができた人でした。ですがわたしは、日々の生活の中で物忘れをして、妻から「あなた、ボケたんじゃない。そのうちお経も忘れちゃうんじゃないの」などと蔑まれると、「何をいってるんだ。そんなことはない!」と必死になって反論しています。まったく死んでいません(トホホ・・・)。

わたしが「生きながら死んでいる」のは唱題中だけです。だけではあるのですが、これは有り難いことです。

わたしの唱えるお題目、南無妙法蓮華経は、小島弘之が唱えるお題目ではありません。内なる、みほとけのいのちそのものが唱えるお題目です。このお題目は、はからいを超えて腹の底からコンコンと涌出してくるお題目です。わたしは、このお題目を「癒しから目覚めへのお題目」であると感じています。

このお題目が深まるにつれて、少しずつではありますが、日常生活の中でも「息ながら死人となるモード」に入れるようになってきました。それは「エゴの囚われから解放され、爽やかに生きられる」ということを意味しています。

さて、「死人」とか「死ぬ」という言葉を連発してきましたが、それを不快に思った方もあるかもしれません。ですが、この唱題が深まると、次の歌のような心境になります。

妙法をおのが命と知るからに死ぬも生くるも題目のまま

妙法とは、妙法蓮華経のことです。

唱題に終着点はありません。わたしの唱題修行は、まだ始まったばかりですが、この歌のこころを味わえるようになってきました。わたしはこの歌のこころを「妙法五字の中に生き、妙法五字の中に死す」と表現しています。

この唱題道を歩んで行くことは、わたしにとって何ものにも代えがたい喜びです。

「自己への信」というときの「自己」。それは実績とか肩書を超えた「みほとけのいのちそのもの」としての自己です。そのような自己があることを、わたしは唱題道に入るまで知りませんでした。ですが今は、唱題の道を歩み、この自己への信を深めていくことこそが、真に癒され平安を得て、仏の世界へと目覚めていくことであると実感しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「小島弘之を捨てられますか?」と聞かれたことがあります

「あなたは小島弘之を捨てられますか?」そう、ある瞑想家から質問されたことがあります。

「今すぐ捨てなくてはなりません」ということではなく「捨てる覚悟はできていますか」という意味で、こう質問されたようです。

江戸中期の僧侶、白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師は、白隠慧鶴を捨てることができた人でした。

白隠禅師の寺がある村の、うら若い娘が村の若者を好きになり、親に内緒で交際をし、みごもっててしまいました。怖くて父親にはいえません。ですがお腹は次第に大きくなっていきます。

切羽詰まった娘は、父親にウソをつきました。「私のお腹に赤ちゃんがいます。父親は白隠さまです」

こう言えば、「あの立派なお坊様の子ならしょうがない」と怒られずに許してもらえるだろうと考えたのです。

ところがその考えは大外れ。激怒した父親は、赤ん坊を抱いて、白隠禅師の寺に怒鳴り込み、「このニセ坊主!よくも娘をたぶらかしおったな」と言って、赤ん坊を白隠禅師に押し付けました。

白隠禅師は「ほう、そうか」とだけ言って、赤ん坊を受け取りました。とはいっても、寺にいるのは修行僧のみ。女性はいません。白隠禅師は、毎日赤ん坊を背負って村を廻り、赤ん坊のいる母親に乳を恵んでもらっていました。

村の母親たちは、蔑みの眼で白隠禅師を見ましたが「赤ん坊に罪はない」と言って、乳を与えていました。

その様子を見ていた、子を産んだ娘は、いたたまれなくなり、父親に「ごめんなさい!」と本当のことを告げました。それを聞いた父親は、白隠禅師のところに即座に駆けつけ「申し訳ないことをしました。赤ん坊をお渡しください」と言って、土下座して詫びました。

このときも白隠禅師は「ほう、そうか」とだけ言って、赤ん坊を娘の父親に渡しました。

白隠禅師は「自分は村人から尊敬され、慕われている白隠慧鶴という僧である」ということに、まったく、こだわりがありませんでした。「名誉棄損」などと言う思いは、禅師には、これっぽっちもありませんでした。白隠禅師は、白隠慧鶴であることを捨てることができた人であったのです。

さて、わたしは、周囲の人に、「本当に南無妙法蓮華経を唱えるためには、自己への信を持つことが必要です」とよく言っています。

わたしは、唱題をし、自己への信を深めていますが、信を深めるために、小島弘之という自分を大切にするのではなく、捨てる覚悟をしようとしています。これは矛盾した話のようにに思えますよね。

でも、「自己への信を深めるために小島弘之を捨てる」というのは、まったくおかしな話ではないのです。このことは次回の記事でお伝えしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お題目の真髄・その2 ー 仏の子であることに目覚める ー

前回の記事で、次のように記しました。

「娑婆即寂光」を身体(からだ)で受け止め、それが身に染みるようになったのは、令和元年の12月、斉藤大法上人のもとで唱題をしはじめてからのことです。

「娑婆即寂光」とは、以下の日蓮聖人の『観心本尊抄』の言葉を五文字に凝縮したものです。

法華経の本門如来寿量品において、私たちの住むこの世界は、火災・水災・風災に脅かされることもなく、成立し、変化して破壊され、無に帰するという宇宙の循環をも超えた、変化することのない永遠の浄土浄土であることが説き明かされました。そこに在(ましま)す釈尊は、過去・現在・未来において消滅を示すことはなく、その釈尊の教えを受ける私たちも釈尊と一体ですから、同様に消滅を超えているのです。

(日蓮宗宗務院・伝道部訳)

法華経・第十六章の如来寿量品に基づいて、日蓮聖人は、「目覚めればこの世は永遠の浄土である」と言われているのです。

幾多の法難に遭い、死と直面してきた日蓮聖人の生涯は、平安とか安穏といったものとは程遠いものでした。その厳しい人生のなかで、聖人はこのように言われたのです。

汚泥に満ちたこの世にあって、日蓮聖人は、一切、泥に染まることなく清らかに、寂光土を生きられました。それは、わたしのような凡人には到底、不可能なことである。そう思っていました。

ところがなのです。大法上人のもとでお題目を唱える修行をはじめてから、外的環境とはまったく関係なく、言い換えれば外的環境に一切、依存することなく、平安と生きる力を感じるようになってきたのです。

そのお題目は、外に向かって朗々と「これがお題目だ」と唱えるお題目でも、何かを祈願するお題目でもありません。どこまでも内に向かって深められていくお題目です。それはご本尊をただ奉るのではなく、ひたすらご本尊と一つになるお題目です。

このお題目でわたしは、自己のいのちの真実に目覚めることができると実感しました。

いのちについて大法上人は次のように言われています。

「わたしたちの いのち もまた大海の変化し続ける波濤のひとつ。いつしか大海に戻る。そもそも大海から来たのだから。波濤だけが独立していることなどあり得ない。今は、大海のこの波濤を生きている」

ご本尊とひとつになる唱題を実践する前、わたしという波濤は大海(ご本尊・本仏)と分離していて、大海の生命力とつながっているとは思えませんでした。それが唱題により、大海の生命力とわが身のいのちが一つである感じるようになりました。唱題をしていると、こんこんと本仏のいのちが湧き上がってくることを感じます。

さらに大法上人は、次のようにも言われています。

「お題目には、言葉にも形にも表せない無限の悟りの功徳が包み込まれているというのに、改めて何を願うというのだろう。南無妙法蓮華経とは、そういうものです。一つの波濤(限定されたもの)は、大海(無限なるもの)に含まれる」

わたしたちは日常、個々のいのちを、別々に切り離されたものと感じ、優劣を競い合い、傷を深めています。ですがが唱題をしているうちに、「わたし」が無限なるものの一部であることを感じるようになり、癒されはじめました。

この癒しが進むにつれて、わたしの唱えるお題目は、ときには獅子が咆哮するような大音声(だいおんじょう)のお題目となることもあるようになりましたが、それは慈悲に満ち溢れたものです。そのようなお題目が自己の計らいを超えておのずと湧き上がってくるようになったのです。

わたしたちは誰もが仏の子であって、ぐれようが絶望しようが、いかなる時も本仏の慈悲の中にある。そう法華経は説いています。ご本尊と一体になる唱題をすることによって、わたしははじめて、このことを頭ではなく身体で受け止められるようになりました。

将来、しっかりと修行すれば、仏の子にしてもらえるというのではありません。「あなたは、今すでに仏の子であるのです」というのが法華経のメッセージです。わたしは、そのことを唱題をとおして噛みしめるようになりました。

とはいっても、わたしの仏子としての目覚めは、まだまだ浅いものです。妻から「あなたアホね」と言われれば腹が立ちますし、実際にアホなことをしでかして落ち込むこともあります。

ですが、唱題修行を続けることによって、「わたしは仏の子である」という自覚は揺るぎのないものとなっていくであろうと感じています。

仏の子であるという「わたし」の真実に目覚めるのが、お題目の真髄である。そう、わたしは実感しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

お題目の真髄 ー 嵐の中に微笑んで立つ ー

なぜお題目を唱えるのか。言うまでもなく、それは幸せになるためです。では幸せとは何なのでしょうか。

親しくさせていただいている、お題目の信心をしている老婦人は「お題目って本当にありがたいのよ」といつも仰います。柔和で人々幸せを祈っている素敵な女性です。

彼女の語る、お題目の信心で幸せになった人の実例を幾つかあげてみましょう。

貧困に喘(あえ)ぐ中、普通ではあり得ないような救いの手が差し伸べられて、豊かで穏やかに暮らせるようになった。

重篤な病に冒されたものの、医師も驚くような奇跡的な回復を遂げることができた。

諍(いさか)いが絶えず、不和であった家族が一つにまとまった。

この世における不幸は、大きく括(くく)れば貧・病・争の三つにまとめられます。この老婦人に限らず、わたしの周囲でお題目の信心を深めている方たちは、この三つの苦しみから救われたことを熱心に語られます。

お題目の信心をしている人だけではありません。わたしは、お不動様の信仰をしている人からも観音様の信仰をしている人からも、その信仰で貧・病・争の苦しみから救われたという体験を聞いたことがあります。

わたしが知っている信心に励んでいる人たちは、どなたも誠実で、他者に対しての慈しみや、みほとけへの感謝を抱いている人たちです。どの人たちも心底、信仰によって救われたと実感されているようです。

わたし自身、法華経に帰依する前、お念仏を称えたり、お不動さまの真言を唱えたりすることで、苦しみから救われた体験を持っています。お題目以外の信心をしている人の中にも、頭が下がるような敬虔な生活をしている方がありました。

では、なぜわたしは、それまでの信仰を離れてお題目を唱えることを選んだのか。それは唱題の道が釈尊の心に適った真の道であると確信したからです。

釈尊は、一国の王子として生まれて大切に養育され、貧・病・争とはまったく縁のない環境で育ちました。夏季、雨期、冬季のそれぞれに快適に過ごすことのできるる三つの宮殿を持っていたとも言われています。ですが、釈尊はその誰もが羨望するような環境を捨て去り、王である父の期待を裏切って、妻子を捨てて修行の旅に出ます。

釈尊が求めた幸福は、外界の環境に一切、左右されることのない幸福ででした。すばらしい家を建てて幸福感を得ても、一瞬のうちにその家が津波で流されてしまうこともあります。外界の何かに依存した幸せは、寄る辺のないものです。釈尊の求めた幸福は、貧・病・争いのいずれにも冒されることのない絶対的な幸福でした。

この幸福を端的に表した日蓮聖人の言葉があります。それは「娑婆即寂光」です。

「娑婆」とは、嵐が吹き荒れることが止むことのないこの世です。自然災害の嵐だけではありません。この世には疫病の蔓延や経済崩壊という嵐もあれば紛争、戦争といった嵐が吹き荒れることもあります。その嵐の中で、自身も家族も吹き飛ばされそうになることもあります。

日蓮聖人はこのような「娑婆」が「寂光」、すなわち美しい仏の世界だと言われているのです。

わたしは「娑婆即寂光」という言葉に触れる度に、次のような日蓮聖人の姿が目に浮かびます。

暴風で木の枝が折れて吹き飛び、横殴りに降る激しい雨の中。大地にしっかりと足をつけて、微笑んで前方を見つめている一人の僧。

この姿は、『法華経』と日蓮聖人を知ったばかりのころ、理解し難いものでした。わたしにとっては穏やかな陽射しの中に在ることが幸せで、嵐は厭うべきものでした。

貧・病・争がなくなることを願う信仰、嵐が収まることを祈る信仰を、日蓮聖人は決して否定はされていません。「家族が健康で仲良く暮らせますように」とお題目を唱える信心があってもよいと思います。

ですが日蓮聖人は、そこにお題目の信心の真髄があるとは言われていません。「娑婆即寂光」こそがお題目の真髄です。このことを、わたしは『法華経を』を学ぶ道程(みちのり)で徐々に理解し始めたのですが、今思えば、それは頭による理解で、観念的なものでした。

この言葉を身体(からだ)で受け止め、それが身に染みるようになったのは、令和元年の12月、斉藤大法上人のもとで唱題の修行を始めてからのことです。

次回はこのことについて記すことにいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お念仏とお題目

同じ「となえる」でもお念仏(南無阿弥陀仏)は「称える」、お題目(南無妙法蓮華経)は「唱える」と表記します。

わたしは、今は日蓮宗の僧侶となって、日々お題目を唱えていますが、実家の菩提寺浄土真宗であったため、昔はお念仏を称えていました。そのため、なぜこのように表記が違うのか、感覚的によく分かります。

「称える」には「胸に染み入るように」といったニュアンスが、いっぽう「唱える」には「腹の底から朗々と」といったニュアンスがあります。

実際、わたしは唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)をしていると、みほとけのいのちが腹の底から涌き上がってくる感覚を覚えます。

崖から海に身を投げて自ら命を絶とうという人が、お題目を唱えてから身を投じる姿はイメージできません。お題目を唱えていると生きる力が涌いてきて元気になってしまうからです。

「誰もが心の内に仏としての本質をもっていて、例外なく仏になれる」というのが、妙法蓮華経法華経)の教えです。そこには「生きよ!」というメッセージこめられているように、わたしには感じられます。

妙法蓮華経のこころを学ばずしてお題目を唱えていると、増上慢になって生きる危うさもあるように思われますが。

南無阿弥陀仏は「どのような人間もお浄土に救い取ってくださる大いなる慈悲を持った阿弥陀如来に命を預けます」という意味。それゆえ、崖から身を投じようとする人がお念仏をお称えする姿をイメージしても違和感を覚えることはありません。

もちろん自死を奨める、お念仏のお坊さんはいないでしょうけれど。

お念仏とお題目のどちらが現世利益と強く結びついているかと言えばお題目です。それは、お念仏の信仰に「穢土(えど)を厭(いと)い離れ、浄土を欣求す」(穢土とはこの世のことです)という言葉があるのに対して、お題目の信心は、この世を否定することなく、浄土としていくものであるからです。

お題目を唱えることによって、病気が治ったとか経済的な困窮から抜け出すことができたという現世利益の話はよく耳にします。仏教系の新宗教にお念仏を称える教団がほとんどなく、お題目を唱える教団が圧倒的に多いのは、この利益を標榜しているがためでしょう。

では、日蓮聖人のお題目の信心の核心は、現世利益を得ることにあるのでしょうか。たしかにお題目を唱えていると、現世を力強く生き抜こうという勇気が湧いてきます。その結果、お題目を唱えて、社会的、経済的な幸せをつかんだ人は多くいます。

ですがお題目の信心の核心は、単に現世を幸せに生きることにはありません。ではその核心、真髄とは何なのでしょうか。それは次回の記事で記すことにいたします。

 

 

 

[元気になるオンライン仏教カウンセリング」を始めました

看護師をしている、二十代後半の女子の教え子の相談に、Zoomを通して乗りました。彼女は、患者本位ではなく営利本位のブラック病院に勤めていて、身も心も疲れ切っている状態でした。相談の内容は、彼女の今後の進路についてでした。

Web会議ツールというのは本当に便利です。遠方にいる人とも瞬時につながって顔を見ながら話ができる。これはありがたいことです(ありがたくないことも起こっているのでしょうが)。

わたしの修行の師、斉藤大法上人が住職をしてる要唱寺では、オンラインで唱題の実践も法要も行っています。わたしは「オンラインで法要ができるのかな?」と思いましたが、遠方に居住しているご遺族から大変に喜ばれています。

さて、疲れ切っていた教え子ですが、わたしが彼女の話に耳を傾けていると、沈み込んでいた表情は次第に明るいな表情へと変化していきました。彼女の「元気になりました。ありがとうございます」という言葉で相談は終了しました。

教え諭したりするようなことは何もしていません。「そうだったんだあ」とか「なるほど」と頷いて、最後は彼女の決断について「いいんじゃないかな」と言って相談を終えました。

わたしは人の相談に乗るにあたって、解決に向けて何かを提案したり仏教の智慧を提供することもあります。ですが多くの場合は、話を聴いているだけで来談者の心は整理され、来談者自らが問題の答えを出します。教え子の場合もそうでした。

教え子について、カウンセリングをオンラインで行ったわけですが、カウンセリングをしていて、いつも痛感することがあります。それは、カウンセリングに最も必要なのは「信の力」であるということです。その信とは「誰の心の内にも間違いなく仏性と呼ばれるいのちの輝きが潜んでいる」ということへの信です。仏性は「仏としての本質」とか「仏になれことができる可能性」と解釈されています。

わたしは教員時代に民間のカウンセラーの資格を得ましたが、カウンセリラーとしての力量は、心理学的な知識やテクニック以上に「向き合う人の心の内にある仏性への信をどれだけ持っているか」で決まると感じてきました。

この信を持って来談者と向き合うと、ただ傍にいるだけで、来談者は生きる勇気、力が涌いてくるようです。

法華経』の最重要メッセージは「誰もが仏になれる!」です。わたしにとって最高のカウンセリングの教科書は『法華経』です。

Web会議ツールの便利さを実感し、Zoomで仏教講座を開講しましたが、オンラインカウンセリングも始めました。仏教の智慧に基づいたカウンセリングです。このカウンセリングが一般のカウンセリングと異なっているのは、霊的な世界も視野に入れているということです。

よりよく生きていくために対人関係が大切であることは言うまでもありませが、この仏教カウンセリングでは対霊関係も大切にしています。

人は見えない世界、亡き人(霊)の思いの影響も受けているということを、わたしは僧侶として実感しています。対霊関係に問題があると感じた場合は、たましいの供養をするなどして対応します。

「死ねば終わり」と考えている人は、「対霊関係」などと言うと「何を馬鹿げたことを」と一笑に付すでしょう。そのような人に、わたしは「たましいの供養」をお勧めしたりはしません。それぞれの人の考え、自由意志を大切にしたいと思っています。

仏教カウンセリングに関心のある方はお問合せください(プロフィール中の「このブログについて」にメールアドレスがあります)。

あなたが、もし仏教カウンセリングを希望されるなら、あなたの心の内にある仏性に合掌し、敬いの心をもって、あなたのお話をお聴きし、問題の解決に向けてサポートさせていただきます。