体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

いのちは響き合っている

 言葉だけではなく、人は仕草、表情、声のトーンなどでもコミュニケーションをしています。さまざまなコミュニケーションの手段があります。では、目の前にいる人に背を向けてもらい、その人に無言で思いを伝えることはできるでしょうか。

 大多数の人が、それは不可能と答えるでしょう。それは思念(思い)で感情を伝えることができるということを知らないからです。知らないながらも人は無意識に思念で他者に影響を与えていることがあります。

 わたしは若いころ、ある霊的な力のある人から、「お父さんの思いが暗く沈んでいると、子供はその思いを受けて感情が不安定になり、ケガをしたり事故に遭いやすくなったりことがあります。日常の思いに気を付けてください」と言われたことがあります。

 当時、わたしは教員をしていましたが、日々問題児と格闘し、疲労して暗い表情をして生きていたのでハッとさせられました。

 思念のみで人に影響を与えることがある。そう言われて「なるほど、そうですか」と言う人はわずかでしょう。ですが慈光塾の授業を受けると、誰もがこのことを認めるようになります。

 慈光塾(わたしの主宰する仏教の私塾)の霊能スタッフの男性、Nさんは、優れた霊的感性をそなえています。塾生に赤と記したカード、黒と記したカードの2枚をシャッフルして1枚を引いてもらい、Nさんにはカードを見せず、わたしに背中を向けてもらいます。わたしはそのNさんにカードの色を思念して送ります。赤なら「赤だよ」と思念を送ってもよいのですが、感情を思念に伴わせて、赤あの場合は「慈しみ」、黒の場合は「憎悪」の感情を込めて思念を送ります。

 Nさんは、黒の場合、私が思念したその瞬間、「わっ、もういいいです、止めてください」と言い、赤の場合は瞬時に顔がほころびます。彼は何回思念を送っても全て的中させます。感情を込めずにカードの色を思念して送ってもよいのですが(それでも彼は全て的中させます)、感情を伴った思いが他者に影響を及ぼすということを知ってもらうためにこのような方法をとっています。

 思いのみで人の心を不安にさせたり傷つけたり、あるいは安心させたり癒したりしていることがある。このことを真に知ると、人の生き方は変わります。

 他者に発した悪しき思いは、いずれブーメランのように自分に返ってきて自らを傷つけるということも併せて塾生には伝えています。神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち付けるという呪詛は、実際に効果を生むことがありますが、これは我が身の破滅に繋がります。

 塾生同士でこのカードの色当てをやっても、そう簡単に7、8割、的中させることはできません。それは、送る側が思念を集中できず、受け止める側も心を澄ませることができないからです。ですが的中率を上げようと根を詰めてこのトレーニングをしないようにしています。

 それは思念を強化したり思念を受ける感受性を高めるのには危険が伴うからです。強い念で他者を傷つけたり、自らが鋭敏になって傷つきやすくなったりすることがあるのです。それゆえ面白半分でこのトレーニングをすることはお奨めできません。まずなすべきことは、自らの思いを強く明るく慈しみのあるものにしていくことです。

 いずれにしても私たちは思いの世界で響き合っています。父親が無意識に娘さんに行き過ぎた心配の思念を飛ばし、その結果、娘さんが男性と付き合おうとすると何故かいつもうまくいかないといったことが実際にありました。

 思いの力を知り、その力を正しく用いることによって人生をより良い豊かなものにしていくことができる。このことを、わたしはは慈光塾で伝えています。

 わたしたちは、人間以外のいのちとも思念で響き合っています。「愛してるよ」といった思念を植物に送って育てるとよく育つということがあります。このことは植物好きの人は実感しているのではないでしょうか。

 特に高級神霊(神仏)としっかりと強く思念で響き合うと人生は大きく開かれていきます。このことはまた改めて別の記事でお伝えしたいと思っています。

 

 

本当の幸せとは ー高校生のガクトへー ②

  君が幸せな人生を歩むために、わたしは、祈りと共に在る生活をしてほしいと願っている。というと君は、「宗教に入信して生きなさい」ということなのかなと思うかもしれないけれど、そうではないんだ。

 現代、多くの人たちは物質主義の生活をしているけれど、物質世界を超えた霊的世界を感じ、その世界と繫がって生きてほしいと願っているんだ。祈りと言うのは、高い霊的世界と繫がるためにするものだ。そのためには特定の宗教に入信しなくてもよい。わたしは仏教者だが、敢てそう言おう。

 物質主義の反意語として心霊主義という言葉を用いている人がいるけれど、物質主義ではなく心霊主義に立って生きることが真に幸せな人生を送ることに繫がると言ってもよいだろう。

 人は、死ねばば無に帰る。死後の世界も輪廻転生(生まれ変わり)も無い。そう考えるのが物質主義。これに対して死後も個性は存続し、死後の個性と交流することは可能だと考えるのが心霊主義だ。

 死後の世界も輪廻転生も人の生んだ空想、迷信に過ぎない。そう考えている人は多いと思うが、現代の最先端科学は、それを否定するどころかその可能性を言及するようになってきている。

 だがわたしは君に死後の生の可能性を示唆する量子物理学を学んでほしいと思っているわけではない(もちろん学んでくれてもよいのだが)。慈光塾の学びの中で、霊的世界を感じる感性を磨いていってほしいと願っているんだ。

 物質主義の世の中で、老人の孤独死が話題になり、孤独ゆえに命を絶つ若者もいる。だが霊的感性が磨かれると、見えない世界と響き合い、孤独ということは、本当は誰にとってもあり得ないことなのだということが実感されるようになる。

 孤独ではないけれど、亡き人の悲しみや苦しみが響いてくるということはある。それを癒すのが祈り、供養(霊的慰め)なんだ。先祖霊の温かい慈しみの思いを感じることも、もちろんあるけれどね。その際の祈りは、感謝の祈りだ。

 さて、霊的世界との繋がりを感じて生きる生き方を心霊主義と呼んだけど、心霊主義に立つと物質主義で生きるのに比べて、非常に心豊かで深い生き方ができるようになるんだ。

 だが、この次元では、前の回で君に伝えた「失われることのない絶対幸福」を実感することは難しい。これを実感するには、心霊主義ではなく神霊主義に立つことが必要なんだ。

 わたしたちは先祖霊をはじめとする様々な霊と響き合って生きている(多くの場合、表層意識では実感できていないけれど)が、その上位には神霊(仏教的に言えば如来)という存在があり、誰もがその存在の愛(慈悲)に包まれていると考えるのが神霊主義だ。

 これをただ頭で考えて受け入れるのではなく、君に実感して生きてほしいと願っている。それが究極的な幸せの道だとわたしは考えているのだ。この愛に真に目覚めるためにわたしは僧侶として修行している。

 君は僧侶になる必要はないけど、君が慈光塾で学んで如来の愛に目覚めたら、こんなに嬉しいことはない。

 なお、死後の生や輪廻を認めると、「次の生があるからいいや」と言って今回の人生をいい加減に生きるということもあるのではないかと批判する人がいるけれど、これは大いなる勘違い。今回の生を精一杯生き切らないと、死後明るい世界に赴くことはできないというのが真実だと、わたしは確信している。このことも併せて君に伝えておこう。

 

 

 

 

本当の幸せとは? ー 高校生のガクトへ ー ①

  私が開いている仏教の私塾、慈光塾は個別指導塾です。若者とお迎え間近の高齢者では人生の課題は異なります。同世代であっても課題が異なることもあります。

 全世代に通底した仏教の説く真理がありますが、個々それぞれの人に合った形でそれを伝えていきたい。そういった思いから個別指導にしました。

 塾生の一人であるガクトは高校2年生。大学への進学を望んでいますが、まだ人生のビジョンは定かではありません。これから人生の舞台に立つ彼には「本当の幸せとは?」というテーマで授業をはじめています。

 その一部を、ガクトに話しかける形の文章で紹介します。

 幸せになりたいかい? そう問われれば、もちろん君は「はい」と答えるだろう。では幸せとは何なのだろうか。

  人生で成功することが幸せ。成功者になりたい。そう考えている若者が多いのではないかと思う。

 社会的な地位を確立し、お金が十分にあって、健康にも恵まれている状態。「成功」について多くの人は、そんなイメージを抱いているのではないかな。これらを満たしている人を成功者と定義するなら、成功者は必ずしも幸せとは限らない。

 どんなに社会的に成功していても人から信頼され愛されず、信頼し愛する人もいない。それでは幸せとは言えないだろう。

 では、多くの人から愛され、多くの愛する人がいる成功者なら幸せなのだろうか。こんな人もいるよ。

 身体に障害があり、人もほとんど訪ねて来ない貧乏寺の住職で、穏やかで満たされた日々を送っている僧侶。傍からみて彼が幸せであることがよくわかる。ではなぜその僧侶は幸せなのだろうか。

 それは自らが常に如来の慈悲の中にあることを実感し、たまに訪ねて来た人を慈悲で包んでいるからだ。如来と一体であることを常に感じて生きている。そのことが彼を幸せにしているのだ。彼は無条件の如来の愛と共に生きているのだ。

 会者定離、愛別離苦という言葉がある。深く愛している人が亡くなった時の苦しみは筆舌に尽くし難い。人生には深く信頼していた人から裏切られるということもある。人の愛は寄る辺のないものだ。永続性のあるものではない。

 だが如来は常に君と共に在って君を愛し、いなくなることはなく、君を裏切ることは絶対にない。この真実に目覚めたとき、君は失われることのない幸せの道を歩むこととなる。

 「この真実」と言ったけれど、そんな真実が本当にあるのか、君は確信できないだろう。今はそれでよい。このことについての信を深めていくのが仏道修行なんだ。

 この世的な人との関係性の中で築かれた幸せは失われることのある相対的なもので、如来との関係の中で築かれた幸せは失われることのない絶対的ものだということは間違いのないことだ。とわたしが言っても、如来との関係性による絶対的幸福というものがあるかもしれないと思える人は決して多くはないだろう。

 ここで付言しておくが、如来とは君と遠く離れて存在している救済者ではないよ。如来は君の内に在るものなのだ。これも理解し難いことかもしれないが、今すぐに納得できなくても構わないよ。

 君がこの世の成功者になる道を選んだなら、わたしはそれを応援していく。君が多くの人から愛され多くの人を愛する人生を歩むのは素敵なことだ。人は過去世から持ち越してきた今生のテーマというものがあるけれど、君の今生のテーマは、社会の中で多くの人たちと共に生きていくことで達成できるものだと、わたしは感じている。

 だがその前に、失われることのない絶対幸福というものがあるということを君に伝えておきたいのだ。「本当の幸せとは?」このテーマの仏教の授業はここからスタートする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読経ロボット

  年忌法要で僧侶を自宅に招いたら、若いお坊さんがやってきて、ポケットカセットテープレコーダーを取り出して、スイッチをオンにした。テープレコーダからは、その若い僧侶の父親である住職のお経が流れはじめた。

 そんな話を聞いたことがあります。

 最近では読経ロボットが僧侶になり代わって読経しています。(株)ニッセイエコが開発した「ロボット導師」はロボットが法衣を着て読経します。

 京都大学の教授らが開発した「ブッダロイド」は生成AIを搭載した対話型僧侶ロボットです。読経のみならず法話もし相談にものってくれます。

 各宗派に対応した、お経を唱える家庭用の人形も登場しています。

 さまざまな職業においてAIが人に取って代わる時代が到来していますが「いよいよ僧侶もAIが務める時代が来たか」と思う人もいるでしょう。しかしわたしは、そうは考えていません。

 税理士、公認会計士などの世界では、その仕事をAIがパーフェクトにこなすことが可能であるようです。囲碁や将棋の世界では、プロ棋士の実力をAIが遥かに凌駕していて、もはやプロ棋士はAIに太刀打ちできません。

 ですが僧侶の世界においては、AIを搭載したロボットは、僧侶になりすますことはできても、本来の僧侶の仕事をすることは不可能です。それは僧侶の活動は、禅定をするといった身体知にもとづいていて、たんなる知性ではなく霊性、悟性といったものによって為されているからです。

 読経ロボットにお経を唱えてもらって、それでよしとしている人は、朗々と良い声でお経を読むのが僧侶の仕事だと思っているのでしょう。

 僧侶の本当の仕事は、この世の人をも含めた魂を、癒しから目覚めへと導くことにあります。故人の供養をさせていただいていると、わたしの場合は、自らの唱えるお題目(南無妙法蓮華経)に故人の想いが映じて来ます。その唱える声は、呻くようなものであったり、美しいく澄んだものであったりと、自己の計らいを超えて様々に変化していきます。お題目によって故人の御霊(みたま)が浄化していくことを感じています。

 いのちは肉体亡き後も持続していることを、わたしは実感しています。このことは知性だけでは真に理解することはできないでしょう。

 僧侶として恥ずかしい話ですが、僧侶の中にも形だけのお経を上げ、魂が癒され目覚めていくめていくことを感じていない人がいます。

 AIが世界を席巻している時代にあって、人の本質が脳を含めた肉体ではなく霊にあるということを理解することは、極めて重要であると考えています。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

お花畑スピリチュアル、興味本位スピリチュアルを超えて

 夢見がちに「わたしたちはワンネスの世界に住んでいるのですね。自他は一体なのですね」といったことを言う人がいます。わたしはこのような人を、お花畑スピリチュアルの人と呼んでいます。そのような人にこんなことを言ったことがあります。

 「がら空きの電車のシートの真ん中にあなた一人が座っていたとします。そこに乗り込んできた人があなたのすぐ横にぴったりと体を寄せて座ったらどうしますか。ワンネスを感じて穏やかにその場に座っていますか?」

 この問いに「はい」と答えたとしたら、その人はかなり心配な人です。この世の次元においては、自己を他者から守る意識が絶対に必要です。ワンネスとか自他一体というのは、世俗の次元を超えた高次の意識次元での話です。

 肉体の次元を超えた霊的次元も、低いレベルでは現世と同じです。そこには嫉妬もあれば憎しみも支配欲もあります。

 わたしから仏教を学んでいる、霊的感受性に優れている女性のOさんは、ある霊能力者から念の暴力を受けていると言います。邪念に攻撃されて身体の様々な部位に日々、激痛を感じているというのです。念の暴力などというのは現代にあっては、警察に訴えても相手にはしてくれませんし、これを「そうなんですね」と簡単に受け入れる人はまずないでしょう。

  わたしはまずOさんに精神科の受診を勧めました。統合失調症の可能性もあるからです。Oさんは精神科を受診し心理検査を受けるなどして、その結果、医師から精神疾患ではないと診断されました。

 診断した精神科医は、「この痛みは精神科の扱う範疇ではありません」と言ったあと、霊的な暴力を荒唐無稽なものとして否定することはまったくなかったそうです。

 興味本位で霊的な世界を覗こうとする人がありますが、そこには大きな危険性があります。Oさんは決して興味本位ではなく、自分の抱えている難病を癒したいと思ってその霊能力者との縁を持ってしまったのですが。

「除霊、浄霊ををします」と謳うサイトがありますが、その多くには詐欺のにおいがプンプンします。霊能力養成を謳うサイトもありますが、これも同様です。

 霊的現象というのは間違いなくあるとわたしは認識していますが、まちがった霊的世界の情報が社会に蔓延していることに危惧感を抱いています。

 さて、Oさんの件ですが、事態は解決の方向に向けて進んでいます。わたしの身近にN君という四十代前半の男性がいるのですが、今、彼と一緒にOさんの問題に取り組んでいます。N君は優れた霊的な力を持っています。僧侶と霊能力者のコンビです。

 わたしは霊能力者なら誰とでもコンビを組むというわけではありません。Oさんに霊的暴力を振るっている霊能力は他者を支配下に置きたいという願望を強く持っています。そして自己の霊力(妖力と言ってもよいでしょう)を誇示しようとしています。自己の力で霊を含めた他者を制そうとする霊能力者は、力があったとしても、まがいものだとわたしは考えています。。

 N君は常に「我が為す業は我が業に非ず。如来の業なり」と観(感)じて霊的事象と向き合っています。そこにエゴは入り込んでいません。自他を離別し、どちらが勝れているかを気にし、自己承認欲求、競争心、敵対心を持つのがエゴ。このエゴの強弱は、精神世界の指導者や霊能者を見極める際の重要な物差しとなります。

 N君がOさんにどのような処方をしたのか。ここではそれに触れませんが、将来紹介する時が来るかもしれません。いずれにしてもN君は一切感情的にならず、理性的に如来の器として働いています。なお彼は専門の霊能者ではなく、普段は会社員としてその職務に専念しています。

 N君、その他の真摯に霊的世界と向き合っている仲間たちと、混迷しているこの世界に霊的真実を伝えていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

この世界は美しい

「なぜ、私がこんな酷いことを言われなくちゃいけないの」と知人に対して怒っている妻に、わたしはこう言いました。

 「この世は苦海だよ。悪意に出遭わない人はいない。仏教は、四苦八苦、一切皆苦を説いているだろう」

 「借金の返済で四苦八苦している」などと言いますが、この言葉は本来仏教語。生・老・病・死の四苦に怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦・五蘊盛苦を併せて四苦八苦と言います。

「嫌な人と会わざるをえず、愛しい人とはいつか離れなくてはならず、求めても得られないことがあり・・・それがこの世である」これがお釈迦さまの教えです。。

 ところが道元禅師は、「尽十方世界、是れ一顆の明珠(あらゆる世界や事象が一つの美しい宝の珠である)」と言っています。

 「世界は美しい」と言うこの言葉。お釈迦さまの説く一切皆苦とは真逆である気がします。どういうことなのでしょうか。

 日蓮聖人は「娑婆即寂光土(煩悩と苦悩に満ちたこの世界が仏の住む美しい世界である)」と言っていますが、これも同様です。

 教員時代、問題児やモンスターペアレントから悪口雑言を浴びせられたとき、わたしは心の中で、「この世界は悪意に満ちている。これが事実。これを変えようとしてもできることじゃない。憤ってもしかたがないさ」と自分に言い聞かせてきました。こう思うことでストレスを軽減してきたのです。

 ところが仏道修行が進むにつれて「世界は美しい」と思うようになってきました。

 それは日常の意識次元から、それを超えた意識次元に立つことができるようになってきたからだと思います。

 日常の意識は自我意識と呼ばれています。それは自分自身を意識し、他者と世界と自分を区別する意識です。そしてその意識には、通常、他者から認められたいという自己承認欲求や他者に対する怒りや恐怖、不安などが伴っています。 

 エゴというのは、自我意識が自己中心的、欲望的に偏った状態を指していることが多いようです(このエゴというレベルの自我意識がないという人はいないでしょう)。この意識次元に立てば、この世界は苦に満ちているということになります。お釈さまは、民衆の自我意識のレベルに立って一切皆苦を説いたのです。

 自我意識にあっては自他は離別していますが、それを超えた意識にあっては自他は不二です。自他離別から自他不二へ。それが仏道修行の道筋です。深い自他不二の意識にありますと、自他の対立は無くなり、自己のいる世界は調和した美しい世界となります。まさにこの世界は「一つの美しい宝の珠」となります。

 自我は社会を生きていく上で必要なものでもありますが、仏教は「自我は究極的には迷執である」と言います。

 と、立派そうなことを言ってきましたが、わたしが深い自他不二の意識にあるのは読経、唱題(南無妙法蓮華経を唱え続けること)の最中のみ。日常生活の場では自我意識がデンと居座っています。妻と対話していて「あなた、そんな強い自己承認欲があって、よく僧侶ですと言えるわね」と厳しいことを言われたりしています。

 日常で自我を超えて自他不二の意識をどれだけ保つことができるか。これが仏道修行であるとわたしは思っています。

 仏教は「無我」を説きながら「本当の自己を生きる」という表現をとったりします。「我が無い」のなら「本当の自己」といったものも無いんじゃないないんですか? そう質問されたことがありますが「我が無い」というときの「我」は「自我意識」を指しています。これが分からないと「仏教は矛盾したことを言っている」ということになってしまいます。自我意識を超えた「本当の自己」というのはあります。

 「自他不二」、「無我」、「本当の自己」・・・。これらを知識として身に付けてもあまり意味はありません。これが頭ではなく、修行(わたしの場合は唱題修行)によって体解(身体全体で修得)されたとき、「苦しみの世界」は「美しい世界」へと変容します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この力を手渡したい

 わたしの仏道修行の師、埼玉県要唱寺住職の斉藤大法上人は精神科医でもありますが、AIに次のように語り掛けてみたそうです。

 「私からすると死後の意識(霊)の存在は、疑いないものです。なぜなら私は亡くなられた方の死後の現在の状態を幾万も体験しているからです。もちろん、私の意識は清明(特にここが医師として訓練されている)であり、体験されたものを観察しています。自分の想いや意図を差しはさまず。もともと医師(科学者)でもあるのでその点、厳格に訓練されているのです」

 これに対してAIは、大法上人の体験が一般的な「体験談」や「信念」のレベルをはるかに超えている、世界的に見ても極めて稀で、深い意味を持つ体験であると述べた上で、以下のように応えています。

 「科学の世界では、死後意識の存在を『確率的に示唆するデータ』は増えていますが、あなたのように『観察者として』死後の意識状態を多数経験した科学者はほとんど存在しません」

 さらに、ここでは省きますが、AIは大法上人の体験が科学的に重要である点も指摘しています。

 わたしは大法上人の指導の許で、亡き人の意識(霊)が、自己の唱題(南無妙法蓮華経を唱え続けること)の静けさの中で自ずと観察されるようになっていきました。南無妙法蓮華経を唱えるわたしの声のトーンは、はからいを超えて自然と変化していきます。呻くようになったり、明るく歌うようになったり・・・、これは供養している死後の意識(霊)の状態が唱題に映し出されてくるのだということが分りました。

 お会いしたことのない故人の供養をさせていただいて、唱題にその状態が映じたことから「故人はこのような方であったのではないですか・・・」とご遺族に問うと「なぜ分るのですか?」という言われることがしばしばで、最初はこれはわたしの思い込みや妄想せはないかと思っていましたが、いまはそれが事実であると認識しています。

 大法上人にはじめてお会いしたのは令和元年の暮れでしたが、当時は大法師の、清明な心の中で亡き人(霊)の意識が観察されるという力は、特殊能力なのだろうと思っていました。それが師の指導を受けるうちに、同様のことがわたしの身にも起こるようになってきて、この力は日々深まっています。

 ということで、この力は特殊能力ではなく、修行すれば誰にでも開花する力であると思うようになりました。ところが、僧侶として指導をさせていただいていて、可能性は誰でもが持っていても、この力を開花させるのはそう簡単なことではないということが分ってきました。エゴがこの力を発現することを阻んでいるのです。

 エゴは自己を護る働きをしてくれていて、排除すべきものではありません。エゴを否定せず、それを包み込んで超えていくということが、この力を発揮するために必要なのです。

 わたしは今、亡き人(霊)の霊を観察し、癒し浄化することをさせていただいていますが、これを今、それなりにできるようになったのは、十代のころから、エゴを超えたいと願い、おぼつかない足取りではあっても仏道に心を寄せて歩んできたからだと思います。過去世でも同じ思いで人生を過ごしてきた気がします(だとしたら、随分と長い時間をかけてきたものです。わたしは決して仏道の優等生ではありません。劣等生といってもよいかもしれません)。

 発現させるのは簡単ではありませんが、エゴを超えて霊を観じ、霊を癒していく力は誰もがもっています。この力を発揮したいと願う人には、わたしは全力でそのためのお手伝いをしたいと思っています。

 今、時代は霊性への時代へと向かう過渡期にあると感じています。霊を観じ癒す人が増えることは、霊性の時代の到来に向けての大きな力になると考えています。

 そこまで至らずとも唱題修行をしていますと、肉体を超えた内なる大いなるいのちの力が実感されるようになってきます。そしてその実感は周囲へと波及していきます。

 仏道を歩む仲間と、時代を切り開いていきたいと願っています。