
僧侶は「死んだらどうなるのですか」と訊かれることがあります。その答えは一様ではありません。「死後残るものは無い。死んだらおしまい」そう思っている僧侶もいます。
ですがそう思っていても、檀信徒から葬儀時に「亡くなったおばあちゃんは今どこにいるのでしょうか」と質問されて「霊魂と呼ばれるものは実在しません」とはっきり言い切る僧侶はまずいません。それは檀信徒は亡き人の冥福(死後の幸福)を祈るのが葬儀だと考えているからです。
葬儀で読経を僧侶に依頼する人は、たとえ何とはなしにではあったとしても、死後に残る肉体を超えたいのちを感じているのだと思います。
無霊魂論者は故人に感謝はしても、僧侶と共に故人の死後の幸福を祈ることはしないでしょう。昔から続いてきた儀礼であるので、僧侶を呼ばないと周囲から後ろ指をさされるので仕方なく呼ぶという無霊魂論者はいるかもしれませんが。
「死んだらおしまい」と思っている僧侶が葬儀で読経するのは、死者のためではなく残された生きている人に寄り添ってグリーフケア、すなわち悲しみを癒すためであると言ってよいようです。ですが、グリーフケアなら僧侶ではなく心理カウンセラーでもよい気がするのですが。
アメリカで禅の指導を行った経験を持つ藤田一照師は、多くの著作を持つ、よく知られた禅僧ですが、「死は、科学や技術といった理屈では割り切れないものだが、割り切れないものを割り切れないままにして死とうまく付き合っていく、そのための助けになるのが仏教を含めた宗教の役割だと思う」といったことを言っています(『生きる稽古 死ぬ稽古』)。
このように考えている日本の僧侶は多いのではないかと思いますが、同じく禅門の秋月龍珉師は、霊魂と呼ばれるものは無いと断言し(『「正法眼蔵」を読む』)、いっぽうで原田祖岳師は生命持続(死後も持続するいのちがある)を仏教の教理をもって説き「一般人はただ生命は永久不滅のものなることを信ずればよい」と言っています(『原田祖岳著作集一』)。
藤田師も秋月師も原田師も著名な禅家ですが、死後についての見解はまったく異なっています。
わたしは、これが現代、寺離れ、墓じまいが進んでいる一つの要因ではないかと思っています。
近年では、救急医学、集中治療医学が専門の東京大学名誉教授、矢作直樹氏の『人は死なない』が刊行されるなど、知識人の中でも死後の生の可能性を語る人が増えています。
このような状況下で、死後について明確な答えを持ち得ていない日本の仏教界に満足できていない人は多いのではないでしょうか。
このブログで紹介してきた霊的マイノリティーの人たちも、僧侶に対して自分たちの生きづらさを理解してくれるだろうという期待は持てずにいることでしょう。
世の中は、高額で「除霊をします、浄霊をします」と謳っている怪しげな人物で溢れています。わたしは原田師と同様、みずからの体験から「生命持続」の立場をとっていますが、多くの人が怪しげな人物に騙されていることに心を痛めています。
心ある誠実な霊的能力者や、この世を超えた死後も残るいのちを認めている僧侶たちと連携して、観念的ではない、あの世のいのちと響き合う供養の道を歩んでいきたい。そうわたしは思っています。
最後にお知らせです。
本年10月27日(10時半~12時)、横浜そごう内の「よみうりカルチャー横浜」で『寺離れ、墓じまいの時代の終活』というテーマで講座を開講します。現代日本仏教の死後観についても触れます。関心のある方は「よみうりカルチャー横浜」にお問合せください。





