
わたしの所属している日蓮宗の『宗義大綱読本』を開くと、南無妙法蓮華経を唱える目的は成仏することにあると記されています。仏教の目的は仏に成ることであると言ってよいでしょう。参禅するのもお念仏を称えるのも密教の観法を行じるのも、その目的は成仏することにあります。
肉体次元の自我を超えた無限の智慧と慈悲に満ちた存在、それが仏です。仏教の目的がこの仏に成ることにあるというのを否定するお坊さんはいないでしょう。
ちなみにキリスト教にあっては、成神、すなわち人が神に成るというのはあり得ないことです。人は神によって作られた被造物ですので。「人は神に成ることができます」などと言ったら神父さんや牧師さんは、「それは傲慢な悪魔の教えです」と言うでしょう。
『法華経』は誰もが例外なく仏に成れると言っています。わたしはその教えに惹かれて仏教の門に入り僧侶となったのですが、お寺の檀家の中に成仏を目的としてお寺に参っている人は、ごくごく少数です。
菩提寺(先祖のお墓があるお寺)を持つ日本人(檀家)は数多くいます。文化庁の刊行している『宗教年鑑』では、そのような人はすべて仏教徒とカウントしていますが、日本の仏教徒の大多数は、みずからが仏になるためではなく、先祖の供養のために菩提寺に参詣しています。
先祖に感謝と敬いの気持ちを伝え、先祖の冥福(あの世での幸福)を祈るのが供養でです。これは本来の仏教の目的とは異なったものですが、日本仏教の骨子にあるのは「先祖供養」であるというのが現実です。
わたしは多くの日蓮宗のお寺とのご縁を得ていますが、どのお寺でも墓参に来た人の多くは、本堂にお参りしたり、本堂の前で頭を下げたりすることなく、お墓に向かいます。墓前でご先祖に語りかけている人はいますが、お題目(南無妙法蓮華経)を唱える人はほとんどいません。
これは、わたしの実家の菩提寺である浄土真宗のお寺でもまったく同じです。お墓の前でお念仏(南無阿弥陀仏)を称えている人を見たことはありません。
自己の所属する宗派の教えを檀家さんに伝えようという取り組みを真摯にしている僧侶はどの宗派にも多くいます。ですが菩提寺の宗派の教えを真剣に学びたいという人はわずかです。
江戸時代、幕府はキリシン禁止令を発令し、日本人はいずれかの寺院に所属しなければならなくなりました。民衆は主体的にみずから宗派を選び取ったわけではなく、自分が住んでいた地域の寺院に組み込まれることとなったのです。その中にはその寺院の宗派の教えに深く帰依した人もいたでしょうが、多くの人々は宗派の教えを深く信じるのではなく、先祖の御霊(みたま)を敬い、祈ってきました。これは仏教の信心というより祖霊信仰といった方が適切でしょう。その流れが連綿として現代まで続いているのです。
日本は仏教の教えが息づいている仏教国であると海外の人々は認識しているようですが、仏教の教えにはほとんど関心がなく、ただ先祖に感謝し先祖を敬う信仰を持ってきたのが日本人だと言ってよいようです。
近年はこの流れに変化が生じています。先祖に感謝し先祖を敬うことをせず、直葬(宗教的な祈りをせず、火葬場に直行し荼毘に付すこと)したり、墓じまいをする人が増えてきています。今、寺院の墓地には誰も参拝しない、放置されたお墓が増えてきています。
霊園には合祀墓がつくられていますが、知り合いの霊園の職員が「合祀墓というのは骨捨て場のようなものですよ」と言っていました。多くの遺族は合祀場に納骨をした後、まったく参拝をすることがないのだそうです。わが国の法律では遺骨を遺棄することが禁じられていますので、合祀墓に遺骨を納め、後は何の供養もせず、ということのようです。先祖への感謝、先祖の冥福を祈る思いが消えつつあるのが現代なのかもしれません。
僧侶としては、檀家さんに仏教の教えを学んでもらい、仏に成ることを目的とした信心をしてほしいとう願いがありますが、せめて仏教の教えに関心を寄せなくとも、亡き人に感謝し亡き人を敬う思いだけは持ち続けてほしいものだと思っています。
ある年配者が「先祖を大切にすることこそが、家族が幸せに生きていくための秘訣です」と言っていましたが、現代、そのような思いは失われつつあるのかもしれません。
ですがわたしは絶望してはいません。先祖の供養を大切にして葬儀を営む人が無くなることはないでしょう。。前の記事にも記したとおり、知識人が「死後の生」を真面目に語るようにもなってきています。
仏教の霊智を活かし、あの世を感じながら死者と共に在る思いをもって生きる時代。そのような、物質中心ではない心豊かな時代をつくっていきたいと思っています。





