
禅定(仏教瞑想)をしているとストレスが緩和されたり人間関係が良好になったりしますが、これは副次的なもの。禅定の真の目的は自己の内なる仏性(仏としての本質)に目覚めることにあります。
唱題(南無妙法蓮華経を唱え続けること)も禅定です。唱題禅、声を出す禅定と言ってもよいでしょう。このことを私のもとで唱題修行をしている人に伝えたところ、次のような答えが返ってきました。
「南無妙法蓮華経が自分の細胞にまで染みこむ様な感覚で唱えさせていただきます。自己に縁する未浄化な霊をあちらの世界に送り届けるような気持ちで唱えようと思います」
素晴らしい思いです。「商売が繁盛するように」といった現世利益的な思いではありません(多くの人がこのような思いで唱題をしています)。ですが、何かを思う、願うと、それはもう禅定ではなくなってしまうのです。
単に唱えるだけになり切る。唱題の今に徹する。ただひたすら唱える南無妙法蓮華経と一つになる。これが本来の唱題であり、これこそが自らの仏性に目覚める唱題であるのです。
どんなに頭で良きことを思い、願っても、それは自我、五感の感覚、経験の範囲内のこと。それが及ばない領域に入って行くのが禅定です。そのために思考を止めることが必要であるのです。
思考を止め自我を超えた無我の唱題に入る。それが無明(煩悩)を断ち切るキーポイントです。
わたしは唱題修行の師、埼玉県・要唱寺の住職、斉藤大法上人から、お会いしてすぐに、「一回、いや数回でもいいが、南無妙法蓮華経を唱えて、唱える南無妙法蓮華経が無我の南無妙法蓮華経になるか」と問われ、真剣に唱えてみたことがあります。その答えは「ダメです」でした。
横浜から片道二時間以上かけて週に何回も要唱寺に赴き、繰り返し南無妙法蓮華経を唱えることで、徐々に無我の南無妙法蓮華経へと唱題が深まっていくようになりましたが、これは、わたしにとって何ものにも代えがたい喜びでした(唱題修行が進んでいくと、唱えている人の唱題の深さが分かるようになってきます)。
心を鎮めて全身全霊で南無妙法蓮華経と一つになっていく唱題をしていると、南無妙法蓮華経の一点に集中して乱れない、南無妙法蓮華経が自ずと身の内から涌出してくる境地に入ります。この境地を三昧(さんまい)といいます。ただひたすら南無妙法蓮華経を唱える禅定のプロセスを経てその結果、唱題三昧に入るといってよいでしょう。
この唱題三昧に入ると御霊(みたま)の供養時、何かに囚われ苦しんでいた御霊が上がっていくのが実感されます。唱える御題目(南無妙法蓮華経)に御霊の状況が映じて来ます。御霊が苦しければお題目は重たく暗いものとなり、浄まっていれば済んだ明るい歌うようなお題目となります。
これは最初、自分の思い込みではないかと思っていたのですが、お題目に映じた御霊の様子から感じたことを法要時にご遺族お伝えすると、皆さん一様にその通りですと首肯されます。このことで、わたしは唱題三昧による供養力を如実に感じるようになりました。
これはわたしの自我の働きによる力ではありません。自我の働きを止めることで、目に見えない如来の大いなる力が顕われ、御霊が救われていくのだと感じています。
人はこの世を生きていく上でさまざまな願いを持ちますが、不思議なことに、何も願わず、ただ三昧に入って唱題しているだけで願い(自己の願いも他者の願いも)が叶っていく体験をしています。ライバルを失脚させたいといった自己中心的な願いは叶いませんが。
禅定から三昧へと到る唱題。この唱題を多くの方たちと共に実践していきたいと思ってまます。
定は心を静めて深く真理を考える「瞑想のプロセスや実践」を意味し、三昧は心が一点に集中して乱れない「結果として得られる境地」を指します。 [1, 2, 3, 4]