体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

別次元

大谷翔平選手は楽しんで野球をプレイしているそうです。

わたしも、教員時代、楽しんで授業をしていました(そうではない時もありましたが)。

楽しく仕事ができるというのは幸せなことです。先日、ブラック企業で歯を食いしばって働いている若者と会いましたが、心が痛みます。

さて、今は僧侶として供養の読経、唱題をしていますが、これが楽しいかといえば、そのようなことはありません。では、苦行なのかといえば、苦しくもありません。

唱える南無妙法蓮華経は、わたしの楽しいとか苦しいとかいった思いを超えて涌き起ってきます。それは「わたし」ではなく「みほとけ」が唱えるもの。自我の意図、はからいを超えた南無妙法蓮華経です。唱題はわたしの自我意識が為すものではありません。

昨日は、或るマンションのオーナーさんからのご依頼で、そのマンションの一室で孤独死された方の供養の読経、唱題を、現地に赴いてさせていただきました。

唱題をしていますと、唱題の声は自ずと変化して、亡き御霊(みたま)が癒されて上がっていくことを感じました。

唱題するということは、この世の営みとは別の次元のことであると、しみじみと感じています。