あなた自身を供養する
「お釈迦さまは、生きている人のために教えを説いたのですよね。でも日本の仏教は、葬儀・法要での供養が中心です。これっておかしいんじゃないですか」
そう問われたことがあります。
お寺に対人関係の悩みがあって相談にやってきた若者に、住職が「わしゃ、生者は扱わん」と言ったという話を聞いたこともあります。
日本仏教が葬式仏教と揶揄(やゆ)されるようになってから久しい時が流れています。
冒頭の問いに、わたしはこう答えました。
「わたしは、あの世の人のためにも、生きている人のためにも『法華経』読み、お題目を上げています。人の本質は霊です。肉体があるかないかは問題ではありません」
日蓮聖人の教えにおいては、唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)が正行で、『法華経』の読誦(どくじゅ)は助行です。ということで、わたしは朝夕の勤行は唱題を中心に据えています。
勤行では、わたしが継承した法華道場の信徒各家の霊に供養のお題目を上げたあと、あの世の御霊(みたま)だけではなく、依頼があれば、この世でわたしと共に『法華経』を学び行じている複数の生きている人のためにもお題目を上げています。
わたしが唱題するのは、あの世の人か、この世の人かにこだわらず、たましいを癒すためです。人だけではなく、動物のために唱題することもあります。もうじきやってくる妻の愛犬の三回忌には、その子の供養をすることになっています。
「生きている人のための唱題による供養」というと奇異に聞こえるかもしれませんが、そのようなことはありません。供養は亡きたましいか、生きているたましいかに関わらず「慰めと癒し」のために行うものです。あなた自身を供養するということがあってもよいのです。
法華三昧(深い瞑想状態)に入って唱えるお題目は、わたしではなく御仏が唱えていらっしゃると実感されます。供養はわたしの意図、計らいを超えて為されていきます。
唱題中、わたしの心の中の鏡にたましいの悲しみ、苦しみ等が映じてくることがありますが、妙法五字(妙法蓮華経)の光明に照らされて、悲しみや苦しみは浄化されていくようです。
あらゆる依存から解き放たれて、自己の本質が仏であることに目覚めていくのが仏道を歩むということです。ですが、今、苦しんでいる、あの世とこの世のたましいを慰め、癒し、勇気づけるために唱題をすることがあってもよいと思っています。まず癒されなければ、目覚めへの道を歩くのは難しいでしょう。
唱題供養をしていると、供養の対象者も、供養させていただいているわたしも、共に清まっていくことを感じます。
供養から道が開ける。このことを体験してきました。
供養を依頼したいと思う方、お問合せください。
問合せの結果、お断りになっても何の問題もありません。今、宗教から受けた被害がクローズアップされていますので、一言このことを申し添えておきます。