葬儀、法要で南無妙法蓮華経を唱えていると、御霊(みたま)の状態が感じられ、わたしはそれを遺族に伝えている。
「故人は、すぐにスッと上がっていかれたようです。執着のない穏やかな晩年を送られたのではないですか」
こんな感じでお伝えしている。
「それは違います」と言われたことはまだない。
遺族は、「まあ、坊さんだから、何となくそういったことを感じるのかなあ」と思われているのだろうか。
だが実際に僧侶がこのように感じることは、まずない。ほとんどの僧侶は真摯に読経をされてはいるのだが。
かつてのわたしも、霊的なものを感じることは特になかった。
わたしが、御霊の状態を感じるようになったのは、令和元年に斉藤大法上人に師事するようになってからである。師事してすぐにではなく、徐々にその感覚を持つようになっていった。
このことを仏教の勉強会などで話すと「先生は霊能力を身につけられたのですね」などと言われることがある。
だがこれは一般に霊能力と呼ばれているものとは違う。わたしは霊を視たりその声を聴いたりすることはできない。
自分の身体に霊を降ろして霊に思いを語らせることができる能力を持った人を霊媒(ミーディアム)というが、わたしは霊媒でもない。
霊を降ろして、霊に身体を貸した霊媒は、自己の意識は遠退いて、鮮明ではなくなっている。そのため霊媒が生卵が大嫌いでも、生卵が好きな霊が降りるとそれを二ち三つ飲み込んでしまうといったことが起こる。
霊媒は意識が戻った後、周囲の人から「生卵をおいしそうに飲み込んでいましたよ」と言われ、吐き気を催すこととなる。
未浄化な霊が去った後の霊媒は、疲れ果ててぐったりする。
いっぽう、唱題をしている時のわたしの意識は常に清明だ。唱えているお題目が苦しみに満ちたものとなっても、天女が歌うような明朗なものとなっても、わたしの意識は何の影響も受けない。その唱題は、止めようと思えば瞬時に終わらせることもできる。
唱題をを終えた後は、それがどのようなものであっても心身はスッキリしている。苦しみや悲しみが私の意識に残ることはない。
これはどういうことなのかというと、供養をする霊の状態がわたしの心の鏡に映っているのだ。腐敗したモノを映している鏡に、それを除けて今度は花を映したとき、鏡は腐敗したものの片鱗も留めない。花のみを映している。心の鏡もそれと同様で、一切穢れることなく、さまざまなものをありのままに映す。
唱題中のわたしの心の鏡に何が映るのかは、まったく予測できない。それは、自分の意図を超えて、妙法のはたらきによって映じてくるものなのだ。
南無妙法蓮華経を唱えるわたしの心の鏡に映じた霊の苦しみ、悲しみ、怒りは、妙法の光に照らされて浄化していく。
唱題中、わたしは「唱えている南無妙法蓮華経は、わたしではなく妙法が唱える南無妙法蓮華経である」といった感覚で、変化する南無妙法蓮華経をクールに観ている。
冒頭に「御霊の状態が感じられ」と記したが、「御霊の状態が観じられ」と表現した方が正しいかもしれない。
唱題による供養の功徳は、わたしの力ではなく、すべては妙法の力に帰されるものなのである。
霊能力というのは、遺伝的な要因が大きく、先天的なものであることが多いようだ。訓練すれば誰もが身につけられるというものではないだろう。
だが、わたしが斉藤上人のもとで修行して授かった「たましい救済のお題目」は、本気で修行すれば誰もが授かることができるものなのだ。
「たましい救済のお題目」は、日蓮聖人が唱えられた真のお題目であると斉藤師は言われる。そうであるなら、これがごく一部の能力のある人にしか授かることができないものであるはずがない。日蓮聖人のお題目は万人に開かれたものであるからだ。
「本気で修行すれば」と記したが、その修行の在り方を文章のみでお伝えするのは困難だ。だが道は誰にでも開かれている。
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