体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

念と祈りは諸刃の剣

 

 わたしは、いつもお題目(南無妙法蓮華経)を唱えて祈ります。唱える前に「○○さんの病気の快癒についてお願いします」といったようなことを本尊にお伝えし、唱題(お題目を唱え続けること)中はすべてをご本尊に委ね、何も願わず、ひたすらお題目と一つになります。これは単に口で唱えるお題目ではありません。わたしはこのお題目を身唱のお題目と言っています。

 年賀状に「本年のご健勝をお祈りします」と書いたりしますが、実際に賀状の差出人が受取人を祈ることは普通しないでしょう。また受け取った人も「お祈りします」というのは単なる挨拶の言葉だと考えていることでしょう。

 近年では「祈りが心身に良い影響を及ぼした」という治験結果が報告されていますが、祈りは気休めに過ぎないといのが一般的な見方であるようです。

 ですがわたしは、唱題の祈りが祈りの対象者に良き影響を及ぼすことを感じています。特にいわゆる霊障の苦しみについてはその解消に多大な力を発揮することを実感しています(霊障など迷信に過ぎないと考えている人もいるでしょうか)。

 わたしだけではなく「祈りは効く」と本気で思って祈っている人は、多くはないでしょうがいるはずです。この祈りには普通「○○が実現しますように」という強い念が伴っています。「念ずれば花開く」という言葉がありますが、念の力を実感している人は読者の中にもいるのではないかと思います。

 常に真剣に祈っていると念の力が強化されますが、念が強くなることがが好ましいことかというと、決してそうとは言い切れないのです。

 『日本の怨霊』(平凡社刊)の著者で歴史学者大森亮尚氏は、ある人に強い怒りの念を発したらその人の家が火事になってしまったという経験があるといいます。。これは偶然ではないようで、大森氏は強い怒りの念が、念を向けた人に悪しき影響を及ぼしたことが数多くあったと上記の書中で書いています。大森氏は相当に強い念をお持ちのようです。それゆえに『日本の怨霊』という本を書くこともできたのだと思います。

 実はわたしも高校時代、ある友人に強い怒りの念を発したら、その友人が急坂を自転車で下っていたとき、突然ブレーキが効かなくなり、ブロック塀に額をぶつけ怪我をしたということがありました。このようなことはわたしの人生一度きりで、偶然であったのかもしれませんが。

 しかし、わたしは子どものころから祈ることをしており、そのことで念を発することが習慣となっており、ブラックな念を発動させてしまった可能性もあります。

 今のわたしの僧侶としての祈りが一般の祈りと大きく異なるのは、念を伴わないという点です。自己のすべてがお題目とひとつになる身唱のお題は、わたしではなく御仏(みほとけ)の業(わざ)であると観(感)じでいます。

 わたしは念を超えた三昧のなかで唱題をしているのですが、最近、祈るにあたってお題目と共にそれ以外の言葉を唱えることもしてみました。この言葉も三昧の中で唱えていたのですが、何か違和感を感じていました。

 そのようなことがあり、わたしがお題目以外の言葉でも祈っていることを 慈光塾(わたしの主宰する仏教塾)のスタッフ、橘侑李(たちばな ゆり)さんに告げると、彼女は「わたしのこともその言葉で祈ってくれましたか」と訊きます。

 橘さんに特化はしていませんでしたが、わたしは彼女を含めた縁ある人たちの幸せをこの言葉で祈っており、橘さんははわたしがこの言葉を唱えて祈った日と時間帯まで感受、察知していていました。そしてこの言葉のエネルギーは、痛いエネルギーといったらよいのか、非常に良くないものであると感じたとのことでした(この言葉がどのようなものであるのかは、差し障りがあるので紹介はしません)。

 祈りの言葉は、真摯に唱えると、必ずある霊的世界と繋がります。念を伴わない祈りでも、低い霊的世界と繫がる祈りの言葉を唱えるのは危険だということを、今回の体験で知りました。むしろ念を超えた三昧の祈りの方が危険性は高いと言えるかもしれません。

 一般に祈りは崇高な行為だと思われているけれど、念を強化するような祈りには危険が伴い、念を伴わずとも低い霊的世界と繫がってしまう危険な祈りの言葉もある。このことをお伝えしたくてこの記事を書きました。