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14歳の君へ⑯ 日蓮聖人の信心の核心

「鰯(いわし)の頭も信心から」という言葉がある。「鰯の頭のようなつまらないものでも、信心すると、ひどくありがたいものに思えてくる」という意味だ。

仏教の世界には、「南無妙法蓮華経」のほかにも「南無阿弥陀仏」をはじめとして、不動明王真言、光明真言などたくさんの唱え言葉がある。

このことについて、ある人が、わたしにこんなことを言った。

「『鰯の頭も信心から』と言いますが、信仰すれば、どんな言葉でもありがたいものに感じられてくるのでしょうね。本人がありがたいと思っているのなら、まあ、何を唱えてもいいんじゃありませんか。もっとも私は、一つの言葉を唱えて神仏におすがりするつもりはありませんけれどね」

この人に向かって、わたしはこう答えた。

「『教祖様を絶対に信じます』という意味の言葉を唱えさせる新宗教があるそうです。この言葉を唱えていたら、教祖様という一人の人間を崇拝するようになり、教祖様に高額な献金をして大変なことになるかもしれません。唱える言葉は何でもよいということではないでしょう。あぶない、あぶない。

わたしはお題目、南無妙法蓮華経を唱えていますが、仏様におすがりして唱えているのではありません。お題目は救済されることを願って唱えるのではなく、みずからの仏性、仏としての本質に目覚めるために唱えるものです」

わたしの実家はお念仏、南無阿弥陀仏を称える浄土真宗であったので、十代のころは、南無阿弥陀仏を称えていた(お念仏は大きな声ではなく、しみじみととなえるので「お念仏をとなえる」は「お念仏を称える」と書き、「唱える」とは書かない)。

教員となってからは、真言、禅、天台の諸宗を遍歴して、日蓮聖人の教えに行き着いた。禅宗坐禅を専らとする宗派なので唱え言葉はないのでは思うかもしれないけれど、禅宗でも「南無釈迦牟尼仏」とお唱えすることがある。

伝統仏教の唱え言葉は、どれも怪しい、あぶないものではなかった。さまざまに感じるものがあった。では、なぜわたしは最終的に南無妙法蓮華経を唱えることにしたのか。

一言でいえば、南無妙法蓮華経は、妙法、宇宙本源の大生命と一つになるため、言い換えれば、お釈迦様の目覚めと同様の目覚めに至るために唱えるものであって、唱えていると、そのいのちが腹の底から涌き上がってくるということを知ったからだ(最初はただ知っただけで、涌き上がってくる実感はなかったけれどね)。

このことについて、日蓮聖人は次のように書かれている。これは日蓮聖人の信心の核心をついた重要な言葉なので、まず原文で示すことにしよう。

釈尊の因行・果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」

現代語にすると、つぎのようになる。

「お釈迦さまの仏となるまでの修行のすべてと、仏の持つ、すぐれた性質のすべて。この二つは、妙法蓮華経の五字に具(そなわ)っています。私たちがこの五字を受持するならば、おのずからこの二つを譲り与えられるのです。

「五字の受持」とは、具体的に言えば南無妙法蓮華経を唱えること。それはただ口で唱えるのではなく、先に話した三業受持の心で南無妙法蓮華経を唱えることを意味している。

唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)による成仏が、日蓮聖人の信心の核心なのだ。

だから日蓮聖人の教えにおいては、唱題が正行、すなわち中心となる行で、『法華経』の読経が助行すなわち、それを助ける行という位置づけになっている。

日蓮系の宗派の葬儀、法要で、唱題の時間が読経の時間に比べてごくわずかということはありえない。参列者が「唱題の時間がちょっと長すぎます。短くすべきでしょう」と言ったとしたら、お坊さんは「それは大いなる勘違いです」と言わなくてはいけない。

僧侶も参列者も全身全霊で、三業受持の心をもって南無妙法蓮華経を唱えるのが、本来の日蓮系の葬儀、法要の在り方なのだ。

実際には時間の関係もあって、そうなっていないことが多いのだけれど、わたしは真剣にお題目中心の葬儀、法要にしなければいけないと思っている。