体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

如来への祈り

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高校一年生の教え子が、彼女と初デートをしたと報告をしてくれた時のことです。

「よかったね。で、何処に行ってきたの?」と訊くと、

「鎌倉です。兄が大学受験をするので、お寺で兄の合格も祈ってきました」とのことでした。

参拝したお寺の名を訊くと、何と安産祈願のお寺、大功寺(だいぎょうじ)でした。大功寺にお祀りされている産女霊神(うぶめれいしん)、通称おんめさまは、安産に霊験あらたかな神さまです。

教え子にはそのことは告げず「兄思いの弟で偉いなあ」と、ただほめました。

仏教の神々には、それぞれ商売繁盛、学芸上達、病気平癒、子育てといった得意分野があります。ですが如来にはそれがありません。

そう言ったら「如来オールマイティーなんですね。すごいです!」と感動した人がいますが、それは勘違い。如来は現世の利益を超えた存在です。如来はただひたすら、わたしたちが仏の身となることのみを願っていらっしゃります。

釈迦如来像の前で「どうか孫が志望校に合格しますように」と祈っているお婆さんがいました。「ご苦労さまです」とねぎらいましたが、内心では「ちょっと違うんだけどなあ」と思いました。

わたしの祈りの対象は、妙法、すなわち万物を万物たらしめている根源の法です。その人格的な表現が、法華経に登場する、永遠の仏陀、釈迦如来です。

法華経の後半では、生まれることなく滅することもない、永遠の仏陀の存在が明らかになります。妙法蓮華経の五字は、この永遠の仏陀のいのちそのものです。南無妙法蓮華経と唱える祈りは、この永遠の仏陀のいのち、すなわち妙法と一体になる祈りです。

遠い所にいらっしゃる永遠の仏陀(釈迦如来)を仰ぎ見るのではなく。永遠の仏陀と一つになる。それが如来への祈りであり、唱題である。そのような思いで、わたしは南無妙法蓮華経を唱えています。

わたしは唱題による世界平和の祈りをしていますが、妙法と一体になって唱題をしていると、わたしの自我が唱えているお題目ではなく、御仏(みほとけ)が唱えているお題目であるように感じられます。わたしではなく、御仏が世界平和を祈っている。そのように実感します。

如来への祈り。それは、わたしの自我が何かを願う祈りではないというのが、わたしの感覚です。願わずとも、南無妙法蓮華経の祈りをしていると、人々を仏の世界へ速やかに導き入れたいという御仏の願いの下、必要なことは自ずと起こってきます。

では、わたしが妙法と一つになってウクライナの安寧を祈れば、平和が訪れるのでしょうか。それはわたし一人の祈りでは無理でしょう。ですがこのような祈りをする人が、一定数に達した時、世界は真の平和に向かって大きく変容していくのではないかと感じています。

明日17日は、「24時間お題目リレー」で、この唱題による世界平和の祈りをします。パソコンやスマホの画面を通して、いっしょに祈ってくださる方があれば、心強く嬉しいです。