体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

実話怪談

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インタ―ネット上には、たくさんの怪談サイトがあります。昔から人は怪談が好きなようで、江戸時代には『耳袋』という怪談奇譚が多く収められた本も著されています。そこで私も『現代の耳袋』を書いて、怪談作家としてデビューしようと思っていす・・・というのは冗談です。ですが日蓮宗には、怪談を法話に生かし「怪談和尚」と呼ばれている三木大雲という僧侶もいらっしゃいます。

「怪談と言うのは面白ければそれでよい。本当にあった話であるのかどうかを言及するのはナンセンス」そう思っている人は多いようです。

少し仏教を勉強してみると分かりますが、仏教は無霊魂論であるというのが仏教学会の通説です(最近では、このように言う近代仏教学を批判する本も出ていますが)。

では、実際どうなのでしょう。霊など存在しないのでしょうか。

怪談の中には「実話怪談」と銘打ったものがあります。その中には「実は作り話だろう」とか「思い込みだろう」と感じられるものもあります。ですがわたしは、真実を語っている話もあると考えています。

わたしには、次のような経験があります。今は二児の父親となっている長男がまだ四、五歳のころの話です。

長男とふたりで家の近所を散歩していたときのことです。つないでいた私の手を振りほどいて、長男が突然、車道の向こう側へ向かって走り出しました。道が急カーブしている見通しの効かない場所です。わたしはあわてて長男の腕を掴んで引き戻しました。するとその直後、車がかなりの速さで走行していきました。腕を掴むのがちょっと遅れていたら、長男は車に引かれていたでしょう。

「危ないじゃないか。突然飛び出しちゃダメ!」そう長男を叱ると、彼はこんなことを言いました。

「だって、知らないおともだちがボクのことを呼んでいたんだもん」

知らない男の子が自分のことを手招きしていたのだと言うのです。

ですが、周囲のどこにも子どもの姿は見当りません。人影はありませんでしたが、道の向こう側の電信柱の下に牛乳瓶に生けられた菊の花が見えました。そこで、そばにあった酒屋の主人に「あの花は?」と訊いてみました。

「ああ、あの花ですか。先日、子どもがここで車に引かれて亡くなったんです。ちょうどお宅の坊ちゃんと同じ年ごろの男の子でしたよ」

亡くなった男の子は、浄化できずにひとりぼっちでそこに佇(たたず)んでいて、淋しくて息子を呼んだのかもしれません。

霊を見たり感じたりする感覚をもった子どもを、わたしは複数知っています。ですが、成長すると多くの場合、その霊的感覚は消えていくようです。

成長して学者となった長男は、あの散歩のときのことをまったく覚えておらず、今は、霊について真面目な顔で語るわたしを、冷ややかな目で見ています。

実話怪談を読んだ人たちは「この話にウソはなさそう。やっぱり霊っているんだ。怖いわぁ」などと言っています。ですが他人事ではありません。

「霊が実在するのなら、あなたもいずれ霊になるということになります。そのとき未浄化霊となってしまい、あの男の子のように道端に佇んでいることもありえるのですよ」

わたしはそう、実話怪談に興じている人に言いたいのです。

死後は無ではなく、私たちの意識は死後も存続する。これが真実ならば、霊的な視点から、この世をどう生きたらよいのかを考えるべきなのではないでしょうか。

チェスタトンというイギリスの作家は、こんなことを言っています。

「徹底的に現世的な人々には、現世そのものを理解することさえできないものだ」

わたしは現世を超えた「死後の生」というものを視野に入れて、はじめて「この世を生きるとは、どういうことか」が見えてくるのではないかと考えています。

「死後の生」を前提として、わたしは僧侶として心を込めて「たましいの供養」を行わせていただいています。

「たましいの]供養について、詳しくは要唱寺のHPをご覧ください。

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