体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

キリスト教に近いのは、浄土真宗ではなくて日蓮宗?

tikaintikain

歎異抄・第9章』を読むと、唯円が師の親鸞聖人にこんな質問をしていることが分ります。

南無阿弥陀仏を称えていても喜びの心が涌き上がってきません。どうしてでしょうか?」

この問いに対して親鸞聖人は「私にもこの不審があったのだよ」と答えています。そして次のように言います。

天に踊り地に踊るべきところを喜べないのは、煩悩のせいだ。煩悩深い者を救うのが仏であるのだから、喜べないことによって、いよいよ往生は確実であると思いなさるべきである」

罪悪深重の凡夫が阿弥陀如来を信じることよって救われると説く親鸞聖人の浄土真宗は、原罪を負った人間がイエス・キリストを信じることによって救われると説くキリスト教とよく似ていると宗教学者は言います(両者とも救済宗教と呼ばれることがあります)。

ですがそう聞くと、わたしには「ちょっと違うのでは・・・」という思いが涌いてきます。『聖書』の「テサロニケの信徒への手紙・第5章」には「いつも喜んでいなさい」と記されています。

クリスチャンは「聖霊に満たされる喜び」を語ります。聖霊に自己を完全に明け渡すことによってこの喜びは得られるといいます。

これは、いつも欣喜雀躍しているということではないでしょう。それは不可能なことです。いつも静かな喜びに満たされて在ることを言っているのだと思います。ときには大きな喜びに満たされることもあるでしょうが。

この喜びは、南無妙法蓮華経を唱えているわたしにはよく分かります。ご本尊、妙法に自己を明け渡すことによって、同様の喜びが涌き起ってくることを、わたしは体験してきました。

「自己を明け渡すこと」によって得られる喜びというのは、クリスチャンにとっては、「復活のイエスが、私たちの内で、私たちを通して生きている」ということを実感することなのでしょう。

これは、南無妙法蓮華経を唱えることによって、自己の内から御仏(みほとけ)のいのちがコンコンと涌き出てくる喜びと同質のものである気がします。

キリスト教の祈りや仏教の唱題は、神や仏に「おすがりする道」ではなく「合一する道」であるといってよいと思います。

言うまでもなくわたしは煩悩に満ちた凡夫ですから、妻と口論して落ち込んだり、孫子や教え子が病気をすれば不安に駆られたりします。ですが心の底には、いつも通奏低音として「しずかな喜び」が流れています。南無妙法蓮華経を口に出して唱えれば、この喜びが涌き出してきます。南無妙法蓮華経の力を感じずにはいられません。

なぜかわたしは『浄土三部経』ではなく『法華経』に『聖書』の薫りを感じます。「法華経如来寿量品第16」に登場する久遠実成の本仏・釈迦如来(永遠の仏陀)にキリスト教の神の匂いを感じます。これはあくまでも個人的な思いですが。

わたしは、喜びに満たされた仏の道を周囲の方々と共に歩んで行きたいと思っています。