体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

海に抱かれて ー 言葉遊びを超える ー

宗教体験を言葉にするというものは、難しいものです。

如来にすがる」、「本尊にすがる」といった表現の「すがる」に違和感を覚えるということを、前にブログに書きました。これについて「私は違和感を覚えるということはありません。神仏という大いなる存在に『すがる』ことによって安らぎを得るのが信仰でしょう」という人もいます。

確かにそういった信仰を持っている人は多くいると思います。

わたしは、信仰とはすがることではないと、強固に主張しているわけではありません。ですが自らの唱題体験を語るのに「妙法蓮華経にすがる」と表現することには大きな違和感があります。

唱題をするにあたってのわたしの思いは、妙法蓮華経に「すがる」というよりも「まかせる」、「ゆだねる」と言った方ががしっくりします。いやそれよりも「明け渡す」といった方がよいのかなという思いもあります。

海の上で浮くためには、力をいれるのではなく、身を投げ出して海に身をゆだねるしかありません。流れの速い川に落ちた時は「藁(わら)にもすがる思い」になるでしょうが、海の場合は、すがるのではなく海に身をまかせれば沈むことはありません。

これを「海と一つになれば沈まない」と表現することがありますが、これは人が溶けて海水になってしまうわけではありません。ベテランサーファーが海上に在る様子を「海と一つになっている」と言いますが、一つになるとはこの感覚です。

宗教体験をした人が、神仏と「一つになる」とか「合一する」と言うのは、この感覚に近いのではないかと思います。

わたしは、唱題時、御仏(みほとけ)のいのちという大いなる海にすがるのではなく(海にすがっても浮かびません)、身を投げ出して海に抱かれているいった感覚でいます。無念無想になるのではなく、唱題中、ずっとこの感覚は続いています。この感覚は、大いなる海、御仏への「信」と言ってもよいかもしれません。

昨日、主宰している仏教の勉強会で、男性メンバーの一人と「すがるのか、ゆだねるのか」といったことについて議論しました。わたしは、「『広辞苑』、『大辞林』には「すがる」についてこう記されています」などと辞書の定義まで持ち出して「すがる」についての違和感を語りました。

この議論からこの記事は生まれ、このような議論はわたしにとってはありがたく、好ましいものであるのですが、勉強会の他の一人の男性メンバーに、この議論について「あなたは、どう思います?」と訊くと、彼は笑いながらこう答えました。

「言葉遊びをしているんですね」

このメンバーが亡くなった時にわたしが生きていたら、彼の葬儀で導師をつとめる約束をしているのですが、「言葉遊びをしている」という感想を首肯して、わたしは彼にこう言いました。

「あなたの葬儀でわたしが唱題した時、あの世であなたから『小島先生のお題目は、南無妙法蓮華経という言葉をただもてあそんでいるだけで、ぜんぜんたましいに響いて来ませんよ』と言われてしまうかもしれませんね」

何よりも大切なのは、信仰を言葉にすることではなく、全身全霊で南無妙法蓮華経を行じていくこと。そう勉強会を終えてしみじみと思いました。

「言葉遊びをしているんですね」と言ったメンバーの葬儀では、彼から笑われないように、ご本尊に身を投げ入れ、ご本尊と一つになった全集中の南無妙法蓮華経を唱えるつもりです(彼は私より15歳以上年長ですので、きっとわたしは彼の葬儀で唱題供養をすることになるでしょう)。