体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

自己への信

わたしは唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)をしながら、自己への信を深めています。その信とは、「わたしの内には仏性(仏としての本質)がある」という信です。

唱題をし、この信を深めていくためには、小島弘之を捨てる(辞める)覚悟をすることが必要だと、前回の記事に記しました。

島弘之を捨てる覚悟をしなくてはならないのは、それに囚われていると、仏性そのものである本当の自己に出会えないからです。

わたしの職歴とか実績とか知能とか血圧とか血糖値とかは、小島弘之に深くかかわるものですが、それは上辺のわたしです。その奥にある、名前も性別も肩書も肉体も超えた「みほとけのいのちそのもの」としてのわたしこそが本当のわたしです。

それは、純粋意識、真我、大我などと呼ばれることもあります。わたしは唱題修行をしているうちに、この本当のわたしを感じるようになってきました。

こんな歌があります。

生きながら死人となりてなりはてて思いのままにするわざぞよき

「生きながら死人となる」というのは一見、謎のように思われますが、これは、上辺のわたしへの囚われを捨てるということを意味しています。「エゴを無くす」と表現してもよいでしょう。わたしで言えば「小島弘之を捨てる」ということにほかなりません。

そうすると、内なる、みほとけのいのちの力が現れ出てきて、感情に縛られることなく自由自在に生きられるようになると、この歌はいいます。「思いのままにするわざぞよき」というのは、そのような意味です。

前回の記事で紹介したように、白隠禅師は日常生活の中で「生きながら死人となる」ことができた人でした。ですがわたしは、日々の生活の中で物忘れをして、妻から「あなた、ボケたんじゃない。そのうちお経も忘れちゃうんじゃないの」などと蔑まれると、「何をいってるんだ。そんなことはない!」と必死になって反論しています。まったく死んでいません(トホホ・・・)。

わたしが「生きながら死んでいる」のは唱題中だけです。だけではあるのですが、これは有り難いことです。

わたしの唱えるお題目、南無妙法蓮華経は、小島弘之が唱えるお題目ではありません。内なる、みほとけのいのちそのものが唱えるお題目です。このお題目は、はからいを超えて腹の底からコンコンと涌出してくるお題目です。わたしは、このお題目を「癒しから目覚めへのお題目」であると感じています。

このお題目が深まるにつれて、少しずつではありますが、日常生活の中でも「息ながら死人となるモード」に入れるようになってきました。それは「エゴの囚われから解放され、爽やかに生きられる」ということを意味しています。

さて、「死人」とか「死ぬ」という言葉を連発してきましたが、それを不快に思った方もあるかもしれません。ですが、この唱題が深まると、次の歌のような心境になります。

妙法をおのが命と知るからに死ぬも生くるも題目のまま

妙法とは、妙法蓮華経のことです。

唱題に終着点はありません。わたしの唱題修行は、まだ始まったばかりですが、この歌のこころを味わえるようになってきました。わたしはこの歌のこころを「妙法五字の中に生き、妙法五字の中に死す」と表現しています。

この唱題道を歩んで行くことは、わたしにとって何ものにも代えがたい喜びです。

「自己への信」というときの「自己」。それは実績とか肩書を超えた「みほとけのいのちそのもの」としての自己です。そのような自己があることを、わたしは唱題道に入るまで知りませんでした。ですが今は、唱題の道を歩み、この自己への信を深めていくことこそが、真に癒され平安を得て、仏の世界へと目覚めていくことであると実感しています。