体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

お念仏とお題目

同じ「となえる」でもお念仏(南無阿弥陀仏)は「称える」、お題目(南無妙法蓮華経)は「唱える」と表記します。

わたしは、今は日蓮宗の僧侶となって、日々お題目を唱えていますが、実家の菩提寺浄土真宗であったため、昔はお念仏を称えていました。そのため、なぜこのように表記が違うのか、感覚的によく分かります。

「称える」には「胸に染み入るように」といったニュアンスが、いっぽう「唱える」には「腹の底から朗々と」といったニュアンスがあります。

実際、わたしは唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)をしていると、みほとけのいのちが腹の底から涌き上がってくる感覚を覚えます。

崖から海に身を投げて自ら命を絶とうという人が、お題目を唱えてから身を投じる姿はイメージできません。お題目を唱えていると生きる力が涌いてきて元気になってしまうからです。

「誰もが心の内に仏としての本質をもっていて、例外なく仏になれる」というのが、妙法蓮華経法華経)の教えです。そこには「生きよ!」というメッセージこめられているように、わたしには感じられます。

妙法蓮華経のこころを学ばずしてお題目を唱えていると、増上慢になって生きる危うさもあるように思われますが。

南無阿弥陀仏は「どのような人間もお浄土に救い取ってくださる大いなる慈悲を持った阿弥陀如来に命を預けます」という意味。それゆえ、崖から身を投じようとする人がお念仏をお称えする姿をイメージしても違和感を覚えることはありません。

もちろん自死を奨める、お念仏のお坊さんはいないでしょうけれど。

お念仏とお題目のどちらが現世利益と強く結びついているかと言えばお題目です。それは、お念仏の信仰に「穢土(えど)を厭(いと)い離れ、浄土を欣求す」(穢土とはこの世のことです)という言葉があるのに対して、お題目の信心は、この世を否定することなく、浄土としていくものであるからです。

お題目を唱えることによって、病気が治ったとか経済的な困窮から抜け出すことができたという現世利益の話はよく耳にします。仏教系の新宗教にお念仏を称える教団がほとんどなく、お題目を唱える教団が圧倒的に多いのは、この利益を標榜しているがためでしょう。

では、日蓮聖人のお題目の信心の核心は、現世利益を得ることにあるのでしょうか。たしかにお題目を唱えていると、現世を力強く生き抜こうという勇気が湧いてきます。その結果、お題目を唱えて、社会的、経済的な幸せをつかんだ人は多くいます。

ですがお題目の信心の核心は、単に現世を幸せに生きることにはありません。ではその核心、真髄とは何なのでしょうか。それは次回の記事で記すことにいたします。