今朝、わたしの許で仏教を学んでいる方から、つぎのような主旨のメールをいただきました。
「昨日、知人の葬儀に列席しました。その際、意味が分からなくても、ただ文字を目で追うだけではなく、気持ちを込めて声に出してお経を読むことで、故人を想う気持ちが深まったようでした。より意味のある供養になったと思います」
葬儀会場で、僧侶から列席者にお経本が手渡されたのでしょう。在家向きのお経本には読み仮名が振ってありますから、だれでも音読できます。ですが、僧侶と共に読経する人は少ないようです。ちょっと気恥ずかしさがありますし「意味も分からずに唱えても・・・」と思う人も多いのでしょう。
そもそも、ふつうお経を聞いている亡き人もお経の意味が分かっている訳ではありません。「死んだらお経の意味が分かるようになるのだよ」という人がいますが、それは大いなる勘違いです。
しかし、お経の意味内容が分からなくても、心を込めて唱えたお経は、亡き御霊(みたま)を癒すことになると、わたしは感じています。
大切なのは、お経を唱える声の響き、バイブレーションです。響きに想いが乗るのです。亡き人への感謝、ねぎらいの思いが、読経の響きに乗って故人に届くのです。想いのこもらない空(カラ)読経では意味がありませんが。
さらに言えば、みほとけへの信をもって、みほとけと一つになって読経し、お題目を唱えると、「わたし」を超えた大いなるみほとけの慈悲なる力が「わたし」と亡き人を包みます。この力を妙法経力(みょうほうきょうりき)といいます。
これは、わたしにとって決して観念的な話ではありません。きわめて実際的な話です。
南無妙法蓮華経を唱える唱題修行をしてきて「死後も生命(いのち)は持続し、仏と成るための道を歩んで行く」ということを、わたしは如実に感じてきました。
先日、ある高齢の女性の葬儀で南無妙法蓮華経を唱えていますと、執着等があって苦しいという感じではないのですが、重たくて目が開かないといった感じの唱題となりました。時間を掛けて唱題をさせていただいているうちに、最終的には軽やかで明るい唱題となったのですが。
法要後、遺族から高齢の女性の死因を教えていただき、なぜ唱題がそのようになったのか得心しました。
女性は、夜、お風呂場で湯舟に浸かっている最中に、突然に亡くなったとのこと。持病もなく、前日まで明るく元気で過ごしていて、本人も周囲も、死はまだ先のことと思っていたとのことでした。
おそらく、本人は死について何の心の準備もなく、突然にあの世に移行し、朦朧として死の自覚がない状態であったのではないかと思います。まさにわたしの唱題はそのような心の状態を映していた感がありました。
妙法経力、唱題によって、女性はみほとけに導かれて、上の世界へ昇っていかれたようです。
これを小島の思い込みだと言う人もあるでしょうが、やみくもに「わたしの言うことを信じなさい」というつもりはありません。
女性の遺族は、わたしの法要と話に感謝してくださりましたが、肉体亡き後どうなるのか、その死後観は、各自が確立していくものであると考えています。
わたし自身は、僧侶としてみずからの修行体験を語り、誠実に供養の道を歩んでいくつもりです。
補足です。
お経の意味を知らなくてもよいということではありません。お経には、みほとけの大いなる慈悲と智慧が込められています。この世を生き抜くためにも、お経の内容を学ぶことには、大きな意味があります。