体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ⑱ 頭を捨てよ

「毎日、仏となるために一生懸命、努力してお題目を唱えています」 

そうおっしゃる、真面目に信心されている方がいる。

「それは尊いことです。頑張ってください」と申し上げたいのだけれど・・・。

多くの人は、お釈迦様の因行果徳の二法(お釈迦様の修行のすべてと、その結果得られた、すぐれた特性のすべての二つ)が唱題によって自然譲与される(自然に譲り与えられる)ということが分かっていないようだ。

これは無理もないことかもしれないね。君は学校で先生から「努力ほど尊く大切なものはありません」といったお説教を聴かされていると思う。

努力なしで、英単語や漢字は記憶できないし、志望校に合格できるはずもない。学力は必死に努力してつけるもので、自然に譲り与えられることはない。志望校合格が自然譲与されるなどということはあり得ないよね。

ほとんどの人は、「大切なものは努力しなければ得られない」という強固な思いを持っている。だからお釈迦さまの因行果徳の二法も、努力して唱題することによって手にすることができると思ってしまうのだね。唱題初心者のころのわたしもそうだった。なにしろ、努力の大切さを、日々教員として生徒に説いていたのだからね。

こう言うと、君には「エッ、唱題に努力は不要なの?」という疑問が生ずることだろう。先にわたしは「全身全霊で唱題をする」と言ったけれど、「『全身全霊で』というのは『一生懸命、努力をして』ということではないの」と疑問を抱くのは当然のことだ。

前に分別知と無分別智の話をしたのを憶えているよね。自分と他者を比較し、競い合い、秀でようと努力するのが分別知の世界だ。これは自我によるはからいの世界と言ってもよいだろう。この世界では、人を傷つけそ、不正を働いてまで人の上に立とうとする人もいる。

三業受持のお題目は、分別知の世界の中にあって自我で唱えるものではない。三業受持の唱題の世界には、比較も競争もない。

唱題における全身全霊とは、分別知、自我を超えることについて全身全霊になるということなのだ。それは、全身全霊で妙法蓮華経の中にみずからを預け入れ、妙法蓮華経と一つになるということを意味している。

これはかなり勇気の要ることだ。それは普通、人は分別知の世界がすべてであると思っているからだ。無分別智の世界、仏の世界というものが在るということに絶対的な信を持つのは、そう容易なことではない。

泳げない人が、深いプールに飛び込むというのは怖いことだよね。泳げない人は、力を抜けば自分は間違いなく水に浮くということが信じられない。

お題目を唱えるのは、エイッと妙法蓮華経、御仏のこころ飛び込むことと言ってもよい。分別知の世界のみで生きている人が妙法五字(妙法蓮華経)の世界を信じ切って唱題するのは、泳げない人が水に飛び込むのと同様、そう簡単なことではないと言ってよいだろう。

あれやこれやと考えず、はからいを捨てて真っ直ぐに妙法蓮華経に飛び込んでいく。すると、自己が生まれた時から、いやそのずっと前から御仏に抱かれていたことに気づく。自分が御仏の子であったことに自ずと気づかされるのだ。

お釈迦さまの因行果徳の二法が唱題によって自然譲与されるというのは、こういうことなのだ。私が努力して仏になるのではない。仏になるのは、妙法五字、御仏のはたらき、はからいによるものなのだ。

埼玉県東松山市の妙昌寺の住職で、布教に邁進された渡辺錬定(わたなべ れんじょう)上人(故人)は、師事する西岡大元(にしおか だいげん)上人から次のような言葉をいただいたという。

「千人の学者を師とし、万巻の書に学んだとしても、妙法蓮華経の心を得たことにはならない。頭を捨てよ。そしてお題目を唱えなさい」

この言葉をいただいた日、渡辺上人は修行日記につぎのように記したそうだ。

「今日、初めて本当にお題目をお唱え申し上げることができた」

「頭を捨てよ」。この言葉がいつもわたしの胸に響いている。わたしにも、よきお題目を唱えようと頭で考え、自己のはからいのなかで、一生懸命お題目を唱えていた時期があった。

お題目は、この世の次元で唱えるものではないということと、自己の唱題が未だに拙いということを、わたしは日々実感している。お題目の深さを思わずにはいられない。

(付記)

冒頭のイラストは、頭を捨てないで唱題している姿のイメージです。本来のお題目は、肩の力を抜いて、腰をスッと立て、胸の前で合掌して(掌は45度ほど前に傾けます)唱えます。