体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

デクノボーになりたい

 

外出して帰宅した妻から「あなた、日が暮れているのに洗濯物、庭に干しっぱなしよ」、「今日も、ゴミ箱を取りに行くの忘れたの」と叱られるのは日常茶飯事。昔は、物忘れすることは、ほとんどなかったのですが。

妻に叱られたわたしは、宮沢賢治の「雨にも負けず」の末尾を口ずさみました。

ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウモノニ ワタシハナリタイ

口ずさんだら、妻にこう言われました。

「なに気取っているのよ。デクノボーって「役立たず」っていうことよ。あなたがほんとうにデクノボーになったら、すぐに老人介護施設に入ってもらいます」

賢治がなりたかったデクノボーとは、『法華経』に登場する常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)であったのではないかと思います。賢治は熱烈な『法華経』の信奉者でした。

常軽敬菩薩は、誰と向き合っても、軽蔑の心を抱くことなく「あなたを深く敬います。なぜなら、あなたは、いずれ必ず仏さまになるのですから」と言いました。

そう言われた人は、「オマエみたいなデクノボーからそんなことは言われたくない」といって、この菩薩をひどくいじめました。でも常不軽菩薩は、ひるむことなく、どのような人にも合掌し続け、仏となりました。この常不軽菩薩は、お釈迦さまの前世でした。

たしかに私の記憶能力は衰えました。                       

昔は長文の古文でも漢文でもスラスラと記憶できました。ですが、六十歳を過ぎて身延山の道場で修行したとき、若者が短時間でお覚える経文を身につけるのに、その何倍もの時間を要し、愕然としました。

でも、わたしは絶望してはいません。それは、わたしの仏性は失われることがないからです。

どんな優れた能力を持っていたとしても、それは老いと共に衰えていくもの。ですが肉体的な能力の衰えとは関係なく、唱題をしていますと、自らの仏性は顕(あら)わになってきます。唱題は深まって行きます。常不軽菩薩が敬い合掌したのは、この仏性です。

社会が自己の能力を認めてくれず、憤りを感じている若者が、わたしの周囲にいます。その若者の能力をわたしは認めていますが、その若者が能力を誇ろうとすればするほど、仏道から遠ざかってしまう気がしています。それは仏性を覆い隠すエゴ(自我)が強固になってしまうからです。

仏道を歩む上で大切なのは、社会に有為な能力があるかないかではありません。自己と他者の内に在る仏性(仏としての本質)に絶対的な信を置き、合掌することです。

この合掌の心なくしては、家庭から国家にいたるまで、真の平和が訪れることはないでしょう。

妻に役立たずと罵られても、妻の仏性に合掌できるデクノボウでありたい。そう思ってはいても、「わたしは聡明である」と言い張り、しばしば妻とぶつかるわたしがいます。絶望はしていませんが、自己の未熟さを思わずにはいられません。

日蓮聖人は、法華経修行の肝心は常不軽菩薩の合掌にあると言われました。南無妙法蓮華経の心は、すなわち常不軽菩薩の合掌である。このことをしみじみと感じる、今日この頃です。