体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

物語から目覚める・その2

日本では昔、補陀落渡海(ふだらくとかい)というものが行われていました。補陀落とは、遥か彼方の南海にあるとされる観世音菩薩の浄土。そこに向かって大海原に小船を漕ぎ出すのが補陀落渡海です。生還する可能性はまずない旅立ちです。

南に海が開けている紀州勝浦は、補陀落渡海の中心地でした。修行を積んだた僧が渡海するのが通例でしたが、戦国時代には世を憂えて18歳で渡海した例もあったようです。

補陀落渡海を目の当たりにした宣教師、ガスパル・ヴィレラは、母国のイエズス会に送った書状に次のように書いています。

「彼らが舟に乗って、海に送り出される時、大いに歓喜しているのを見て、私は大変に驚きました」

前回の記事で「宗教は壮大な救済の物語である」と記しましたが、補陀落浄土に向かって大海を漕ぎ進め、そこ行き着いて仏と成るというのも、その物語の一つであると言えましょう。

現代にあっては、海の彼方に観音様の浄土があるという物語を信じる人はいないでしょう。ですが昔も今も変わらず、人は物語の中で生きていると言ってよいようです。

太平洋大戦中、多くの日本人は「我が国は神国であり、英米は鬼畜。この戦いは日本が必ず勝つ聖戦である」と信じて疑いませんでした。日本の敗戦でこの物語は潰えましたが、戦後は「物質的に豊かになることこそが幸せへの道である」という物質中心主義の物語に、多くの人が飲み込まれていきました。その結果、地球の温暖化は加速し、これまでの資本主義経済は修正を余儀なくされています。

わたしは長年、高校の教師をしてきましたが、「高学歴であることによって幸せになる可能性が高まる」という物語の中で生きている保護者や、その影響を受けた子どもたちをたくさん見てきました。この物語に反発する親や生徒もいましたが、この物語から完璧に解き放たれている親、生徒はわずかでした。

自他を離別したものと捉え、比較、競争をして傷を深め、人は不安と恐れの中で生きてきました。国際紛争、学校内のいじめ、会社内や家庭内での紛争・・・。どれもが自他は離別したものであるという見方によって生まれたものですが、法華経は、これは幻想、物語に過ぎないと言います。

すべてのいのちは、仏性を持ち、表面的には差別の相を持ちながら、本質的には平等であり、いのちは離別したものではなく、ひとつらなりである。これが法華経のメッセージでです。これを平等大慧(びょうどうだいえ)と言います

このメッセージを多くの人々が真実であると受け入れた時、心には平安が訪れ、家庭内から国際間に至るまで、あらゆる紛争は収束に向かって進んでいくことでしょう。

「平等大慧」も一つの物語なのではないか。そう思う人もあるでしょう。私自身、法華経に出会ってすぐにこの言葉を信じたわけではありませでした。ですが唱題修行を深めていくうちに、すべての人は本質的には仏であるということが、頭ではなく、たましいで信解できるようになってきました。自分を蔑む人にも合掌して頭を下げる、法華経中に登場する常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の心が、次第にわかるようになってきました。

「『すべてのいのちは平等である』というの,は、きれいな言葉だ。だがそれは現実を知らない人間の言う戯言(たわごと)だ」そう言う人もいるかもしれもせん。

ですが、これはわたしにとって、仏道を歩む中で立ち顕れてきた真実でした。唱題で法華三昧に入ると、頭によって構築されたすべての物語は消え、御仏(みほとけ)のいのちが身の奥から涌き出てきました。そして、すべてのいのちは、本質的には御仏のいのちそのものであるということが腹に納まりました。

このことを頭ではなく身で受け止めることができるようになって、本当の意味での供養ができるようになってきました。

自己の内なる御仏のいのちの涌出。これは観念的なお話ではなく、仏道修行をすれば、だれもが体感できる真実である。そうわたしは周囲の人にお伝えしています。

法華三昧を出ると、個々の人が抱いている物語に翻弄されそうになることもありますが(わたしの妻は「女尊男卑」の物語をいつも語ります。恐ろしいことです)、あらゆる物語を全否定したら、世俗を離れて一人で生きていくほかはありません。

物語に飲み込まれるのではなく、今、物語の中にあることを自覚し、仏の世界に向かって物語から目覚め、周囲の人々の目覚めも促していく。それが仏道を歩んで行くということであると感じています。