キリスト教の神と仏教の仏を「同じようなものだろう」と思っている人が、案外多いようです。ですがそれは誤解。
「成仏」という言葉がありますが、一神教の国で「あなたも神に成ることができます」と言ったら大変なことになります。「成神」はあり得ません。
「13歳からの南無妙法蓮華経・その5」をアップします。ケンタは「仏」について理解をし始めたようです。
13歳からの南無妙法蓮華経・その5
お釈迦さまの目覚め
「さて、まずお釈迦様の話から始めよう。
小国とはいえ、一国の王子として城に生まれたお釈迦さまは、何の不自由もない生活を送っていた。豊かで健康で周囲の人たちから敬われ、愛する妻と子もいたのだ。
だが、その生活を捨てて、修行の旅に出る。
お釈迦さまは、自然災害や戦争などでいつ失われてもおかしくない、自分の外側の物質的なものに依る幸せとは違う、真実の幸せがあのではないかと思ったのだ」
「ボクのお母さんは、裕福で健康で家族が仲良く暮らすことが幸せだと言っていました。でも、お釈迦さまは、真の幸せを求めて、お城も財宝も家族も捨てて修行の旅に出たんですね。厳しい修行は、ゼッタイ健康にもよくないですよね。
お母さん、この話を聞いたらビックリするだろうな。
で、お釈迦さまは、その真実の幸せというのを見つけることができたのですか?」
「見つけることができた。そしてブッダとなったのだ。ブッタとは「目覚めた人」という意味。仏とはブッダのことだよ」
「ブッダという言葉、聞いたことがあります。で、お釈迦さまは、いったい何に目覚めたんですか」
「本当の私に目覚めたのだ。たかだか生きても百年ほどで消えて無くなってしまうのが私ではない。肉体を超えた大いなるいのちが本当の私だということに目覚めたのだ。
「それは、お釈迦さまは、特別に優れた人なので、お釈迦さまだけが『肉体を超えた大いなるいのち』を持っていたということですか」
「いや、そうではない。『おおいなるいのち』こそが人の本質だということに目覚めたのだ。
大いなるいのち。それは時間、空間を超えた、限りない智慧と慈悲をもった、いのちそのものだ。そのいのちこそが、人の本質で、それは絶対に失われることはない。このことにお釈迦さまは目覚めたのだよ。この本質のことを仏性という」
「じゃあボクの本質も、その『大いなるいのち』だということなんですか。ボク、ほとんど智慧も慈悲ももってないですけど」
「そうだね。多くの人は、自己の仏性に目覚めてはない。だが、本当は誰もが仏性を内に具えた尊い存在なのだよ。このことに目覚めて、お釈迦さまは揺るぎのない平安に至ったのだ。お釈迦さまは、自己の外側にではなく、内側に真の幸せを見出したといってもよいだろう」
「それで、先生がボクに向かって合掌する意味が分かりました。
合掌している仏像は、向き合う人の「大いなるいのち」に合掌しているっていうことなのですね。
「そのとおりだよ。『仏さま!』と叫んだら仏さまは、その叫びに応えてくださる。と同時に仏さまはケンタの内にいると言ってもよい。仏性とは内なる仏だ。
私たちは、みな仏の子。それが、お釈迦さまが法華経で説かれている、もっとも重要な教えだ」
ケンタはここまで話を聞いて、こう言いました。
「今日、うちに帰ったら、ボクの鉛筆や消しゴムを無断で使う妹にも合掌します」
どうやら、ケンタは仏とは何かを分かり始めたようです。