体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

切り離されてしまった世界

都心部の高層マンションの上階に住む知人の家に遊びに行ったことがあります。

リビングの家具は白と黒で統一され、いかにも都会のマンションの部屋といったオシャレな感じで、窓から見える夜景の美しさに感動しました。

ですがなぜか落ち着きません。

黒いソファの前に置かれたテーブルは金属製の脚が付いているガラス板のもので、木製のものは何もありません、テーブルの上には花が飾られていましたが、それは造花でした。本物と見紛(まが)うような花でしたが、生気は感じられません。

部屋が、いのちあるものから切り離され、無機質であったことが、わたしを落ち着かなくさせたのだと思います。大地からも切り離され、空中に浮かんでような感覚も覚えました。

わたしは「観葉植物とか魚が泳いでいる水槽とかを置いたらいいんじゃないかなあ」と思いましたが、知人の嗜好にあれやこれやと言うのは失礼だろうと思って、何も言いませんでした。

少なからぬ都会人が、自然と切り離された生活、人間以外のいのちと、ほとんど触れ合うことのない生活をしています。それに慣れ切ってしまっている人もいますが、どこかでそこに息苦しさを感じて、マンション暮らしでも許容される範囲で生き物を飼う人もいます。

都会人、いや現代の日本人の多く切り離されてしまっているのは、自然だけではありません。自然を生んだ大いなるいのち、神仏からも切り離されてしまっているようです。

昔の日本人は、特定の宗教、宗派に対する信仰心はなくとも、神仏に対して、なんとはなしに有り難い,かたじけないといった思いをもって生きていました。

しかしほとんどの現代人は、神式で結婚式をし、仏式で葬儀を営んだとしても、それは単なる儀礼で、物質中心の生き方をしています。

人は、いのちのつながりのなかで、はじめて健やかに生きられるのではないでしょうか、ですが現代人の多くは、神仏や自然と切り離されて生きています。他者とも争い敵対して切り離され、孤独を感じて生きている人もいます。

現代、特定の病名が付かなくても、なんとなく心身に不調や不安を感じ、スッキリしない人が多いようです。実際、教員時代、そのような同僚が多くいましたし、心が不安定な生徒も少なからずいました。それは神仏と切り離され、自己以外のいのちと切り離されてしまっているからだという気がしてなりません。

お題目、南無妙法蓮華経を唱えることによって、わたしは内なる仏のいのちが涌出してくることを感じ、あらゆるいのちとのつながりを実感するようになりました。

「お題目は、いのちといのちをつなぐ心の妙薬です」そうわたしは、ご縁のある人たちに伝えています。