体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

深層のわたしを癒しませんか

定時制高校で教えていた、教員なったばかりのころの話です。職員室で教材研究をしていると、教頭(今は副校長という呼称です)の電話している声が聞こえてきました。

「また、そんな男と付き合っているのか。どうしていつもこうなるんだ・・・」

電話を終えて受話器を置くと、教頭は「どうしてあの子は、いつも幸せになれない道ばかりを選んでしまうんだろう」と言って嘆息してから、わたしに次にようなことを語りました。

電話の相手は、看護師をしている女子の教え子で、真面目で優しく、仕事もできる。だがなぜか、彼女は自分に依存して縋ってくる、自立心のない男性にばかり惹かれてしまう。彼女は、しばらくし付き合ってから相手の依存性に気づいて別れ、また同様の男性と出会い別れるということを繰り返してきた。

今付き合っている男性は、「司法試験に合格して弁護士になる」と言いながら、いつも彼女のアパートの部屋にダラダラと転がって、頭は良いのに勉強もしていない。悪びれた様子もなく彼女に食べさせてもらっている。

彼女は、この男と別れた方がよいのかどうか、その相談で恩師に相談の電話を掛けてきたのでした。

教頭は、教え子にその男と別れることを勧め、もっと慎重に付き合う男性を選ぶようにと説教しました。

当時は「そのような女性もいるのだなあ」と思っただけですが、今は、彼女の意識が無意識の声をしっかりと受け止めることができていなかったのではないかと感じます。

彼女は、無意識のうちに、人から守られ愛されて生きるのではなく、人に愛を与えて生きていきたいと強く願っているのではないでしょうか。であるとすれば看護師という職業は適職でしょう。

ただ、いつも「愛を与える側」にいなければ生きている価値がなく、「愛を与えてもらう側」にいてはならないという強固な思いがあるがゆえに、ひ弱で縋ってくるような男性を「守ってあげなければ」と思って、お付き合いする相手として選んでしまうのではないかと感じるのです。

恐らく、幼少期のトラウマやカルマ(前世のトラウマ)が、「愛を与える側」へと彼女を突き動かしているのでしょう。

「愛を与える側」にいるというのは素敵なことです。でも時には、他者から愛を与えてもらってもよいのではないでしょうか。それを頑なに拒んでいる思いが彼女の無意識に刻印されていて、自分を愛してくれる人ではなく、自分が愛し守らなくてはならない人を選んでしまっているような気がします。

無意識、すなわち「深層の私」が頑なに信じ込んでいる思いを、まず理解し受け止め、解放していくという癒しを多くの人が必要としているようです。わたしも例外ではありません。

以前は毎日更新していた、このブログの記事ですが、最近はそうではなくなっています。このことについて「情報発信がなかなか軌道にのりませんね」と心配してくれる友人がいます。ありがたいことです。

わたし自身も、たとえ短文でも日々、仏教者として不特定多数の人に情報発信していくことが、弘教の上で大切だと思ってきました。毎日、情報発信できない自分を「これではいけない」と責めたこともあります。

ですが、「一人でも多くの人に日々頑張って仏教者としての思いを伝えなければいけない」というのは、わたしの無意識の思い込みであったようだと今、感じています。

弘教が大切であるという思いに変わりはありません。ですが、今、わたしがもっとも精力を傾けていることは、この世の人もあの世のたましいも含めて、少数でも個々の人、たましいと一対一で向き合い、その人、たましいが深く癒されていく活動をすることです。

web上のカウンセリングや仏教講座は、この活動をしやすくしてくれました。日本全国、さらには海外に住む人とも、横浜の道場に居ながらにして、出会うことができます。

実際、Alice Nemcovaさんという東欧にお住まいの女性が、翻訳機能を使ってのようですが、このブログを愛読してくださっていて、この方とは、斉藤大法上人が開いているZoom唱題で一緒に唱題させていただいています。

あの世の人とは、祈れば瞬時に向き合うことができます。この世の人よりも遥か遠くにいるように感じながら、実は近いのが、あの世のたましいだと感じてきました。

この世の遠方にいる人と瞬時に向き合うということは、少し昔までは考えられないことでした。ですが今は、webを通してそれが可能となりました。すごい時代になったものです。

道を求めている方、あるいは、「深層のわたし」の声をしっかりと受け止めて癒されたい方と直に、またはwebを通して向き合い、お話させていただき、祈らせていただきたいというのが、いちばん、わたしがしたいことのようです。

「~です」ではなく「~のようです」と、言い切らずに記したのは、私自身、さらに深く「深層のわたし」と向き合ってみる必要を感じているからです。

一つの宗教の「布教者」になることよりも「たましいの癒し手」になること。それを求めて、わたしは今世に生まれて来たのではないか。そんな気もしています。

僧侶としてのわたしと対話したい方、祈りを必要とされている方は、遠慮なくお問合せください(このブログ中の私の写真の下、「このブログについて」をクリックすると、メールアドレスが記載されています)。