体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

祈りの奥義 ー目覚めれば浄土ー

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日蓮聖人の主著『観心本尊鈔』で、日蓮聖人は『法華経』の教えを踏まえて、次のように記されています。簡単には信じられない文です。

私たちの住むこの世界は、火災・水災・風災に脅かされることもなく、成立し、変化し、破壊され、無に帰するという宇宙の循環をも超えた、変化することのない永遠の浄土である。(日蓮宗宗務院伝道部発行・「『観心本尊抄』に聞く」の現代語訳による)

コロナ禍で大変な思いをしている人に、「この世界は永遠の浄土なんだよ」と言うことができるでしょうか。コロナが収束したとしても、常にわたしたちは自然災害の脅威にさらされながら生きています。

「この世界が永遠の浄土である」というのは、日常の感覚では理解し難いことです。実は、これは心の中にある仏の世界に目覚めたときの真実を言ったものであるのです。

ではどうしたら心の中にある仏の世界に目覚めることができるのでしょうか。目覚めは唱題すること(南無妙法蓮華経を唱えること)によって起こるというのが日蓮聖人の教えです。

ところが、わたしは長年唱題をしてきましたが、「仏の世界に目覚める」とう感覚を持ち得ませんでした。それはなぜか。唱題に願いを込めていたからです・

願いを持つことを否定しているわけではありません。病に罹れば平癒を願うのは当然のこと。受験に臨んでは合格を願うのは当たり前でしょう。ですが、唱題には願いを混入させない。なぜなら、心の中にすでに永遠の浄土が存在しているからです。願ってこれから建立(こんりゅう)するのではありません。厳として今、心の中に存在しているのです。そのことに目覚めていくのが唱題です。

無願の唱題をしていると、自ずと南無妙法蓮華経が腹の底から涌いてきます。これは大いなる御仏の慈悲と智慧が涌き出てくるということです。このことを日蓮聖人は次のように言われています。

己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経と呼び呼ばれて現れ給うところを仏とは云うなり云々(『法華初心成仏鈔』)

仏性とは「仏としての本質」です。仏性に目覚めていくのが無願の唱題です。

風が吹きすさび、横殴りの雨が降りしきる嵐の中に立っていても、心の中は静寂で平安で満たされ、大地にたじろぐことなく微笑んで立っている。日蓮聖人の唱題は、譬えれば、そのようなものであった気がします。

己の心中の仏性が現れ出ると、困難を乗り越える智慧は自ずと涌いてきます。静寂と平安に満たされて唱題をしていると、いつしか嵐は静まり、日の光に照らされて在ることに気づきます。

無願の唱題。これは祈りの極意、奥義です。繰り返しますが、苦しいとき、辛いとき、そこから抜け出したいと願うのは当然のこと。願ってよいのです。ですが南無妙法蓮華経はその現世的な苦の次元で唱えるものではありません。「遥か遠くではなく内に、未来ではなく今ここに在る仏の世界」に目覚めるために唱えるのです。この内なる次元とつながると、必ず、外なる世界も自然と整っていきます。

人は外的な環境が整うことによってはじめ平安を得て幸せになれると考えていますが、これは法華経からすると大いなる勘違いです。内面の仏の世界に目覚めることによって、自ずと外界は整ってくるのです。

現世的な願いを持ちながら唱えるのが南無妙法蓮華経ではありません。釈尊の修行の内容とその結果得られた悟りのすべてが自然と譲り与えられるのが本当の唱題であるのです。願いを叶えたいと思いながら唱える南無妙法蓮華経は、きれいな水の中にあって、喉が渇いたと叫んでいるようなものです。