体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ㉑ 自己実現を超えて・・・

親も学校の先生も、君が自己実現の道を歩んで行くことを願っているはずだ。自己実現の道。それは次のようなものだ。

この世の中で、自分の持っている力を最大限に発揮して、社会に貢献できる人間へと成長していく道。

自己実現した人は、他者をイジメたりなんかしない。他者を助けることに喜びを感じている。そして周囲の考えに流されずに、しっかりと自分で意志決定して生きている。

アブラハム・マズローというアメリカの心理学者は自己実現欲求を満たすためには、その下位にある四つの欲求を順番に満たしていく必要があると言っている。それを下から順番に並べると次のようになる。

1・生理的欲求(食欲、睡眠欲、性欲を満たしたい)

2.安全欲求 (安全に暮らしたい)

3.社会的欲求(孤独ではなく、集団の一員であるという思いを持って生きたい)

4.  尊厳欲求 (他者から認められて生きたい)

これらを順に満たしていくことによって自己実現が可能となると言うのがマズローの説だ。

さて、仏となる道というのは、自己実現の道と同様のものなのだろうか。

仏となる道は、自己実現の道を否定はしない。だが自己実現を超えた先にある道が仏となる道なのだ。

日蓮聖人の教えは、時の権力者にとって都合の悪いものであったので、聖人は何回も迫害された。鎌倉の龍ノ口で処刑されそうになったときは、聖人のほとんどの信徒たちが、自分にも危害が及ぶことを恐れて聖人から離れていった。聖人は、念仏の教えを奉じる人たちから襲撃を受けたたこともある。

日蓮聖人は、自己実現の下位にある四つの欲求がほとんど満たされていない状況にあったといってよいだろう。現代の日本で、他者から疎(うと)まれ、いのちの危険にさらされている人というのは、まずいないよね。

だが聖人は、何ものをも恐れることなく、信徒たちに細やかな目配りをされて、慈悲をもって生きられた。雨に打たれても強風にあおられても、ひるむことなく前を向いて、歩いて行かれた。

どんな土砂降りの雨の中にいても、雲の上には明るい澄んだ青空が広がっている。雲は必ず、流れ消えていく。

日蓮聖人はどのような嵐の中にあっても、頭上に青空を感(観)じて弘教(ぐきょう)の旅を続けていかれたのだと思う。

雷鳴が轟(とどろ)く中にいても、猛吹雪の中にいても、いつも頭上の雲の上には青空が広がっている。前に、だれの心の中にも、いつもコンコンと、御仏のいのちの水が涌き出ているという話をしたが、頭上の雲の上で常に広がって青空は、イコール常に澄んだ水が涌き出ている心中の泉と言ってよいだろう。

自己実現している人は、困難な状況の中にいても、やけを起こしたり落ち込んだりせず人生を切り拓いていこうという勇気をもっている。

だが、雲の上の青空や心の中の泉を感じている人は、決して多くはないようだ。

神や仏というこの世の次元を超えた存在を感じず、あるいは認めずに、自己実現を果たした人はたくさんいる。

自己実現はこの世の現実の中でなされるものだ。仏になるというのはそれを超えた世界に目覚めることなのだ。

だがそれは、この世をしっかりと生き抜いた先にあるもの。仏になる道は、現実逃避の道ではない。ここは誤解のないようにね。

日蓮聖人は、弟子に宛てたお手紙につぎのように書かれている。

あらゆる人にとって南無妙法蓮華経と唱えること以上の遊楽はありません。(中略)ただ奥さんと一緒にお酒を飲みながら、苦しいときにには苦しみを、楽しいときには楽しみを受け入れ、ただそのまま南無妙法蓮華経と一生懸命お唱えください。これこそが法華経によって得られる本当の楽しみでしょう。(『四条金吾殿御返事・しじょうきんごどのごへんじ)』

この楽しみは、この世のさまざまな欲求や願いが満たされたことによって得られる楽しみではなく、一切の外部の環境に支配されない絶対的な楽しみ、幸せといってよいだろう。

このお手紙の中の「奥さんと一緒にお酒を飲んで」という言葉が胸に響く。この言葉に日蓮聖人の優しさと、この世を肯定してしっかりと生き抜こうとする姿勢を感じる。

あの世に往って幸せになるのではない。この世の大地にしっかりと立って、この世にありながら、御仏の次元に目覚めていくのが、南無妙法蓮華経を唱えていくということなのだ。

これは自己実現を超えた、その先にある道だ。

実は、マズローは晩年ななって、自己実現欲求の先に自己超越欲求というものがあると言っている。これは「仏になりたい」という思いと等しいものかと言えば、そうではない。マズローは心理学者なので、目に見えない神仏の次元について言及することはしていない。以上のことを付け加えておこう。