薬物依存やアルコール依存が社会の中で問題となっているけれど、君は「ボクは依存とは無縁だ」と思っているのではないかな。
だが、ほとんどの人は何かに依存して生きている。他者から受けた評価や健康や経済状況・・・。このようなものに満たされれていれば幸せ、失えば不幸。わたしたちの幸せは環境に依存していると言えるだろう。
お釈迦さまや日蓮聖人の幸せは、このような環境に依存したものではなかった。
お釈迦さまは、他人から悪意ある言葉を浴びせられても、いつも静かで穏やかだった。それは、その悪口を受け取ることがなかったからだ。
人からプレゼントを渡されても、嫌なら受け取らなければいいし、包み紙をあける必要すらない。お釈迦さまは、他者の言葉に対してもそれと同様の態度をとられた。
日蓮聖人は、信徒の状況についていつも気遣い、信徒が迫害を受けて負傷すれば涙を流された。だがみずからが法難を受けてへこむことは決してなかった。自分に向けられた他者の言動によって左右、翻弄されることは一切なかった。
だがわたしたちは、いつも人の言葉を気にして生きている。ネットに投稿した写真や文章にイイネが付けば嬉しくなるし、バカにされれば、怒ったり落ち込んだりする。
もちろん誹謗中傷は絶対にしてはいけないことだけれどね。わたしたちの心はそんなに強くない。言葉の暴力に傷ついて、いのちを絶つ人もいるのだ。
病気が治ったり、経済的に豊かになったり、対人関係の問題が解決すると思って南無妙法蓮華経を唱えている人がいる。唱題を苦しみを消すためのツールだと考えているのだろう。
これは日蓮聖人の唱えられたお題目とは別のものだ。みずからの内に在る尊いほとけのいのちに目覚めるのが聖人のお題目だからね。
ひ弱で無力なわたしがお題目によって救済されていくと考えている人は多い。お題目を唱えるということは「仏さま、お助け下さい」といって、御仏に縋(すが)ることであるという誤解がまかり通っているようだ。
本当の御題目と言うのは、どんな困難な状況の中に在っても、コンコンと涌き上がってくるものだ。唱題をしていると、立ちはだかる壁を打破していく勇気が湧いてくる。唱えれば唱えるほど、いのちの力が強くなるのがお題目なのだ。
とは言っても、依存することに慣れ親しんできたわたしたちが、すぐに、いのちの力が涌き出てくるようなお題目が唱えられるわけではない。唱題に依ってみずから過酷な環境を変えていくことは難しい。
だから「病が癒えるように祈願のお題目を唱えてください」という依頼を、わたしは無下に断ることはしない。「仏さま、病気を治してください」とお縋りのお題目を唱える人に向かって「それは本当の御題目ではありませんよ」と言うこともない。
そのようなお題目から入って、だんだんと日蓮聖人の唱えた真実のお題目が唱えられるようになっていくのだ。
だが、依存心をもって唱えるこお題目に安住をしていてはいけない。仏身成就(仏となること)が唱題の最終目的であることを、いつも胸に留めておくことは、とても大切なことだ。