体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

さまざまな祈り・祈りの仲間

 

 

祈りは特定の宗教を信じていていなくてもできます。分子生物学者の村上和夫博士は、神仏をサムシング・グレート(何か偉大なるもの)と表現されていますが、そのような存在に、よいことが起こるように願うのが祈りであると言ってもよいでしょう。

祈りには何かを願わない祈りもあります。「感謝の祈り」はその一つです。親鸞聖人のお念仏はこの祈りです。お念仏を称えようと思ったその時、すでに人は阿弥陀如来に救い取られている。そう親鸞聖人は説かれています。親鸞聖人のお念仏は、すでに救い取られてあることへの感謝の祈りです。

ですので、親鸞聖人の宗旨、浄土真宗の供養は、先祖が浄化してしていくことを、願うのではなく、お浄土に往って仏と成った先祖を誉め称える「讃嘆供養」です。

それから、思いの力によって現実を創る「想念の祈り」といったものもあります。「わが願いはすでに叶えられたり」と完了形で念じるのがこの祈りです。この「祈り」を「意宣り」と書き表すこともあります。

105歳まで生きられた医学博士の塩谷信夫氏が創始した正心調息法は、呼吸法を伴った、想念の祈りです。

正心調息法では、吸息と呼息の間、数秒ないし10秒くらい息を止めて下腹部に力を入れ、病気の我が子の健康回復を願うのなら、「我が子が健康になった」と念じ、元気に活動している我が子をイメージします。

道元禅師は「思いが強ければ、その願いは必ず叶う」と言われました。思いに力があることは、古来、多くの人が認めています。

ちょっと怖い話をします。いわゆる拝み屋さんの呪詛の祈りは「想念の祈り」です。呪詛を生業(なりわい)とする人は、「どうかA子が不幸になりますように」と願う祈りはしません。「A子は、すでに闇の中にあり。A子は不幸になった」と完了形で断じて念じるのです。「A子が不幸になりますように」という祈りは、拝み屋さんという祈りのプロにとっては、中途半端な力のないものでしかないのです(ちなみに現代の日本にも拝み屋さんは実在しています)。

さて、わたしは唱題による祈りをしていますが、これはどのような祈りなのでしょうか。昨日、唱題をしたあと、こんな歌が浮かびました。

唱うれば おのずと個我の 壁破れ ただみほとけの いのち現る

「おのずと個我の 壁破れ」というのは、「男性で僧侶で64歳のこのわたしが頑張って」といった自我意識が自然と超えられていくということ。

すると、姿かたち・名称を超えた、仏性そのものである、わたしが現れてきて、それが永遠の仏陀と一つになって南無妙法蓮華経を唱えているようになる。それが「ただみほとけの いのち現る」です。

わたしは世界の平和を願っています。ですが唱題の祈りに入ると、戦争で傷ついた人の痛みを感じたり、ある為政者に憤りを覚えたりしながら平和を願っいる私の自我意識を超えて、わたしのとても深いところにある意識が永遠の仏陀と一つになって祈っていることを感じ(観じ)るようになります。

あるキリスト者が「私ではなく、私をとおして神が祈っていらっしゃる」と言っていましたが、このキリスト者の感覚は唱題に通じるものがあります。

自我意識を否定するつもりはありません。否定はしませんが、他者との比較の中で、えばったり傷ついたりしたしている、わたしの自我には、現実を大きく変容させる力はないと感じています。

この無力なわたしの自我を超えて、南無妙法蓮華経と一つになったわたしが唱えるのが、日蓮聖人の唱題であると感じています。

唱題の祈りでは、祈りの最中は何も願いません。ですが、自我を超えたこの祈りは強い力を発揮します。

強力でありながら、この祈りによって自分や世界を不幸にすることはできません(みほとけと一つになつて祈るのですから当然ですね)。安全な祈りです。

想念の祈りは一歩間違えると自他を傷つけてしまう危険があります。それゆえ、塩谷博士はご自身が創始した想念の祈りの名称に「正心」を冠したのでしょう。

 

横浜の「よみうりカルチャー」というところで「法華経のこころ」という講座を持っています。

教養講座ですので、受講に際して信心といったものはなくても、まったくかまわないのですが、なぜか「お題目で祈りたい」という思いを持った方が集まっていらっしゃいます。

わたしは、唱題による祈りを皆様に強要するつもりは、まったくありません。どのように祈るか。または祈らないか(「祈りなど気休めに過ぎない。行動こそが大切だ」と言う方もあるでしょう)。それは各自が主体的に決めることです。

そう思っているのですが、自然と今、唱題による祈りの仲間が増えつつあります。祈りの仲間が増えるのは、大変に心強く、ありがたいことです。

祈りの生活を多くの方たちと共にすることができるのは、なにものにも代えがたい喜びです。