体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

14歳の君へ⑲ 常に涌出している心の中の泉

「足るを知る」という言葉があるけれど、これはなかなか難しいことだよね。

経済至上主義の社会では、、どれだけお金や物を持っているかが幸せの指標になっている。

ある日本人の商社マンが、東南アジアのある小さな島を訪れた時のことだ。

島民から「なんでそんなに一生懸命、仕事をしているのかね」と尋ねれれた。

商社マンは、こう答えを返した。

「それはたくさんお金を稼ぐためだよ」

すると、島民から「そんなにお金を稼いでどうするんだい」と問われ、商社マンはこう答えた。

「お金持ちになったら、木陰のハンモックに揺られて、のんびりと過ごすのさ」

これを聞いた島民はこう言った。

「オレたちは。毎日そうやって過ごしているよ」

より多くの物やお金を持つことこそが幸せ。これは多くの日本人が抱いている幻想なのではないかな。

わたしたち現代人は、欠乏感、飢えのようなものを、いつも持つて生きているような気がする。日々満たされた思いで、穏やかに生きている人と言うのは、はたしてどれほどいるのだろう。

お金だけではない。学校の成績、社会人になれば仕事の上での業績。そういったものへの評価を気にして、いつも「もっと、もっと・・・」と追われるようにして生きているのが現代の日本人なのではないかな。

わたしもそうだった。だが唱題をしていて気がついたんだ。本当に大切なものは、すでに手にしているのだということを。

わたしたちは、水がなければ生きていけない。日本は水が豊かな国だけれど、自動販売機やコンビニエンスストアで水を買って飲むこともある。

これは肉体を潤す水だけれど、唱題をしていると、心の中に清らかな泉があって、心を潤す水がコンコンと涌き出ていることを実感しはじめたんだ。この水とは、御仏のいのち。仏性(仏としての本質)だ。この水を飲めば決して心が渇くことはない。

本当に大切なもの。それはこの御仏のいのちだとわたしは感じている。これは遠くに行って求める必要も、買う必要もない。常に、だれの心の中にも涌き出ているものなのだ。もちろん君の心の中にもだよ。

「あなたは尊い」というのは法華経の重要なメッセージだが、なぜ尊いのか。それは、あなたが、心の深いところに清らかな泉を持っていて、澄んだ水を涌出させているからだ。これはだれもが仏の子だということを意味している。

だがほとんどの人は、分別知をもって物質中心の生活をし、この御仏のいのちと自らを切り離してしまっている。心中の清らかな泉に気づけないでいる。

だから、ときにはみずからを価値のないものと思って落ち込んだり、もっと頑張って立派にならなければと、焦燥感をもったりして生きているのだ。

日蓮聖人は次のように言われている。

「わが心の中の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉って、わが心の中の仏性を南無妙法蓮華経と呼び、呼ばれた仏性が顕われるところを仏というのです。

譬えて言えば、籠(かご)の中の鳥が鳴けば、空を飛ぶ鳥が呼ばれて集まるようなものです。空を飛ぶ鳥が集まれば、籠の中の鳥も出ようとするようなものです。

口に妙法蓮華経を呼び奉れば、わが身の仏性も呼ばれて必ず顕われるのです」(『法華初心成仏抄』)

全身全霊で南無妙法蓮華経を唱えてみると、君もこの日蓮聖人の言葉が真実であることを実感するだろう。

わたしの内にすでに仏性はある。だから尊くなろうとする必要はない。すでに尊いのだから。このことに気づいてから、わたしには「自分をなんとかしなければ」という焦りがなくなった。「なんとかなるだろうか」という不安もなくなった。

だからといって「オレは尊い」と胡坐(あぐら)をかいていてよいわけではない。仏性を顕さずに埋もれさせていたのではしょうがない。

この私の尊さ、仏性を顕していくのが、南無妙法蓮華経を唱えるということなのだ。