憑依の実態
前回「たましいの供養の実際・その1」という記事を掲載しましたが、「その2」を記す前に前に、「憑依」について、お伝えしておくことにします。
死は「夢も見ない永遠の眠り」ではありません。死後、高い世界に上っていく霊もあれば、上がっていけない未浄化な霊もいます。このことを明確にした上で、さらに「たましいの供養の実際」について記したいと思います。
憑依とは、未浄化な霊が人間の中に不法侵入してくることを言います。肉体を完全に占拠されてしまう完全憑依は、そうあることではありませんが、小さな憑依は誰もが経験しています。
わたしたちは、無意識のうちに日常さまざまな霊の関与を受けています。まず、このことをしっかりと認識していただければと思います。
特に理由もないのに、落ち込んだり、イライラしたりするなど、気持ちが不安定になっている時、或いは普段は凝らない肩がひどく凝るなど、突然、体調に不調を感じた時は、憑依された可能性があります。
霊媒体質者(霊的感受性が鋭敏な人)は、繁華街の人込みに出かけた後、異常な疲れを感じることがあります。これは生きている人間の濁った想念を受けてしまったということもありますが、憑依が大きな理由です。
死んだことが自覚できず、死んだ場所にうずくまっている霊や、この世をさまよっている霊に憑依されることは珍しいことではありません。
酒が飲みたい、性欲を満たしたいといった執着を持った霊がその欲望を満たそうとして憑依することもあります。
死後も恨みや妬みを持ち続けている霊が、その対象者に災いをもたらそうとして憑依することもあります。
近年では「ネット憑依」もあります。ネットで遠方の人とも簡単につながることのできる時代となりましたが、ネットで交流した人に憑依している霊とつながってしまうこともあるのです。
ネットで誹謗中傷を繰り返している人は、小さな憑依を受けていると言ってよいでしょう。憑依を避ける意味でも、子どもがネガティブなサイトを閲覧しないようにする配慮はとても重要です。
さて、憑依をされないために、どうしたらよいのでしょうか。入浴してシャワーを浴び、身体を清潔に保つとか、規律ある生活をするといったことは大切です。霊は暗いじめじめした場所を好みますので、そのような場所に近づかないようにするのも大切です
ですが、まず何よりも大切なのは、前向きで明るい心境を保つことです。「類は友を呼ぶ」と言います。前向きにイキイキと生きている人に、未浄化霊は憑依し続けることはできません。
「憑依霊って怖い!」と言う人には、わたしはこう言います。
「わたし自身もそうですが、あなた自身が、死後、憑依霊になる可能性もあるのですよ。そのことに気づいていましたか」
また、このようにもお話します。
「憑依を怖がる必要はありません。みずからの心境を高める努力を怠らなければ大丈夫。憑依を受けないための本質的な対策はこれのみ。後の対策は枝葉です。この努力をしていれば、あなたが死後、憑依霊になることもありません」
心境を高める努力というのは、前向きにイキイキと生きるということに併せて、他者を憎んだり妬んだりせず、慈しみの心を持って他者と向き合うように心がけるということです。
このように言うと「それが難しいのですよ」という答えが返ってくることがあります。あなたも、そう思うかもしれません。ですが、安心してください。おのずと心境が高まっていく、誰にでもできる仏教の修行法があるのです。それが唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)です。
次回は、あなたに憑いた未浄化霊が、あなたが計らわずとも浄化していく、本物の唱題についてお伝えします。
たましいの供養の実際・その1
昨日は昼間、高齢者の男性のお葬儀のお勤めをしたのち、夜は、斉藤大法上人の指導の下、Zoomで唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)の修行をしました。
昨夜の唱題では最初、眠くてしかたがありませんでした。眠気に襲われながら唱題をしていると、昼間、葬儀で御供養をした男性の姿が浮かびました。その後、わたしの唱題は、静かで優しいものに変化し、眠気は取れました。
唱題時、未浄化な霊と響き合うことで、わたしは眠くなることがあります。昨夜の唱題の眠気は、葬儀でご供養した男性の霊と響き合ったからのようです。その男性の霊は、葬儀時の読経、唱題では浄化しきれなかったのでしょう。Zoom唱題で、わたしはその男性の霊を、さらに供養させていただくこととなったようです。
そんな気がしただけで、それは、わたしの思い込みである可能性もあります。わたしは未熟ですので、そうであると、はっきりとに分かったわけではありません。ですが昨日のZoom唱題修行の後半で、大法師から、男性のみたまが浄化していったことを告げられ、やはりそうであったのだと得心しました。
さて、今わたしは、上記のようなことを記してしまって大丈夫だろうかと、ためらいを感じながらパソコンに向かっています。ためらう理由は二つあります。
一つには「唱題時、未浄化霊と響き合って眠くなることがある」と記すと、わたしが霊媒となって供養していると思われるのではないか、ということがあります。そして、二つ目には、「唱題の声が変化する」(変化させるのではありません。自ずと変化するのです)と記すと、これは通常はないことですので、心身に変調をきたして、おかしくなってしまったと思われるのではないか、ということがあります。
このような唱題時の状態を記すと、わたしのことを「近づきたくない人」と思う人が出てくる可能性は大です。他の僧侶からは、「仏道から逸脱した僧侶」と思われるかもしれません。
ですが、このブログを今後継続させていく上で、この二点について、明確にしておく必要があると感じています。大法師の下で、わたしがどのような供養をさせていただいているのかを紹介しようと思います。
はじめに、わたしは霊媒ではないということことをお伝えしておきます。霊媒とは何か。辞書には次のように定義されています。
生きている人間が、死んだ親族などと話ができるように、死者の霊魂を乗り移らせて、死者に代わって口をきく媒介者。(『新明解国語辞典』)
霊媒には、いかがわしさが付きまといます。そもそも「死者の霊魂」なるものが存在することは科学的に証明されていません。その実在を認めるとしても、霊媒と言われる人が、本当に死者の霊魂を乗り移らせているのかは、定かではありません。霊媒と名乗る人が、いかさまを働くこともあり得ますし、精神疾患の場合もあるでしょう。ただの思い込みの場合もあります。ですが、わたしは心霊の研究を続けてきて、真正の霊媒が存在することを確認しています。
辞書の「霊媒」の定義に「死者の霊を乗り移らせて」とありますが、実際には「乗り移らせる」のではなく、霊が「勝手に乗り移ってくる」、言い換えれば、霊に不法侵入されることが往々にしてあります。
霊能力者とか霊能者と呼ばれる人とは、わが身に霊を乗り移らせることができ、かつ霊の不法侵入を許さない力を持った人です(ほとんどの霊能者は「自称」で、ニセモノの霊能者が圧倒的多数ですが)。
霊媒は、霊能者のような力はありませんが、霊に対する感度が鋭敏です。そのため霊に支配されたり翻弄されてしまうことが頻繁にあります。その感度の高低はさまざまですが、感度がさほど高くない人は、霊媒体質者と呼ばれています。
霊媒体質の人はかなりの数、存在しています。霊媒体質者が、自分がおかしな霊の影響を受けていることに気づかず、高貴な霊からのメッセージを受け取っていると勘違いしている姿を、わたしは少なからず見てきました。勘違いが高じて教祖さまになってしまった人もいます。まさに「近づきたくない人」です
「霊の不法侵入」は、一般的には「憑依」と呼ばれていますが、わたしが唱題時、未浄化霊と響き合って眠くなることがあるというのは、憑依とはまったく別次元のことです。
また、わたしは霊能力者でもないので、自分の身体に霊を呼び入れたり、わが身に不法侵入してきた霊を、自らの力で除霊したり浄霊したりすることもありません。そもそも、そのようなことはできません。
このことの詳細については、あらためて別の記事でお伝えすることにいたしましょう。
お経はなぜ分からないのでしょう
葬儀のときのお坊さんのお経は、ちんぷんかんぷん、何を言っているのか、まったく意味が分かりませんよね。これは当たり前なのです。日本語ではないのですから。
お経は、古代インドの言葉を漢文に訳したものです。お坊さんは漢文、すなわち中国語の古文を読んでいるのです。
この話を教員時代、「漢文」の授業ですると、こう言う生徒がいました。
「中国人なら、葬儀の読経を聴いて、意味を理解することができるわけですね」この言葉に、もう一人の生徒が反論しました。
「それは違うと思います。日本の古典、例えば源氏物語の朗読を聴いても、ほとんどの現代の日本人は理解できませんよね。それと同じで、中国語であってもお経は古文なのですから、一部の教養のある中国人にしか、聞いても理解できないのではないかと思います。」
この生徒たちの言葉に、わたしはこう答えました。
「実はどんなに教養のある中国人でも、日本人僧侶の読経は分からないのだよ。
日本人僧侶は、文法的に何ら間違いのない中国語の古文を音読している。にもかかわらず、なぜ中国人にも理解できないのでか。
それは発音に問題があるからなんだ。中国語の発音は時代によって変化しているということもあるけれど、何よりもその中国語の発音が激しい日本語訛なので中国人にも聴き取れないのだよ」
音読の「音」とは漢字の中国語による発音と理解されている人が多いのではないかと思いますが、正確に言えば、「音」とは、中国語の発音をまねて日本風に発音したものが定着したものなのです。日本人はこの「音」によって、中国語で書かれたお経を読誦してきたのです。
山形県で育ったわたしの妻は、中学時代、英語の先生の「ズス イズ アッ ペン」という山形弁の英語に続いて、教科書を音読していたそうです。
僧侶をはじめとする日本人のお経の音読は、これと同じようなものといってよいでしょう。
余談ですが、異文化体験研修でオーストラリアに生徒を引率したとき、発音の面で本当に苦労しました。「グッドモーニング」は「グッモ―ネン」、「サンキュー」は「テンキュ」と発音した方がよいといったことを学びました。
お経は、訓読されることもあります。訓読というのは、漢文を日本語の語順に並べ替え、漢文にはない助詞、「を」、「に」などを補って日本語の古文として読むことをいいます。
「如是我聞」を「ニョゼガモン」と読むのが音読、「是(かく)の如(ごと)きを我聞きき」と読むのが訓読です。訓読の際の日本語は、古文ですので、意味を理解するのに、やはり困難が伴いますが、音読するよりも訓読の方が分かりやすいと言えましょう。
お経を現代語訳で読む試みもなされていますが、これは普及していません。葬儀の時に、「如是我聞」を「わたしはこのように聞きました」と読誦したら、読経は威厳のないものになってしまいます。分からなくても漢文を音読した方が葬儀らしい厳かな雰囲気となります。
わたしは、聖書を読むにあたっても、口語訳よりも文語訳の方が好きです。「はじめに言葉があった」という口語より「はじめに言葉ありき」という文語の方が凛とした感じがします。
葬儀、法要の際には、参列者に、事前にお経の分かりやすい口語訳をお渡して、内容を把握していただいた上で、ふりがな付きのお経本で一緒に音読するのがよいのではないか。わたしはそう思っています。
漢字がない社会を生きていることもあり得たのです
わたしたちが、漢字のない社会を生きていることもあり得た。このとことを知る人は少ないのではないでしょうか。
戦後GHQは、何万とある、複雑な漢字は、日本を合理的な国に変えるのに害があると考えていました。昭和二十一年一月、この考えを受けて朝日新聞は「ローマ字を普及すべきだ」という趣旨の記事を掲載しています。
戦前から漢字廃止を主張する知識人はいて、それは「かな表記派」と「ローマ字表記派」に分かれていました。
「ローマ字表記派」の一人に、歌人で国語学者の土岐善麿(とき ぜんまろ)がいます。冒頭の写真は、戦前に刊行された、土岐善麿の新訳中国詩選『鶯の卵』の「春暁」のページです。「春眠暁を覚えず」を、新たに「春あけぼののうす眠り」と訳し、上段には「Haru Akebono no Usunemuri と記載されています。
土岐は『鶯の卵』の末尾につぎのように記しています。
日本では漢字を日用の文字にしていゐるために國語の教育に甚だ多くの時と力を費やし、しかも効果が擧がらない(中略)これを救ふのがローマ字使用の最も重大な目的である。
土岐の訳は名訳ですが、ローマ字でも記されていることに、わたしは驚きました。
漢字廃止論は、戦前は大きな勢力とはなりませんでしたが、終戦直後、勢いを増しました。
この時期、とんでもないことを言い出した人がいます。それは「小説の神様」と呼ばれた文豪、志賀直哉です。昭和二十一年四月、志賀は何と「日本語の公用語をフランス語にしたらよいのではないか」と言い出したのです。
この時期、まさに国語問題をめぐる状況は混乱をきわめていました。そのような中で、昭和二十一年十一月に公布されたのが、1850字から成る当用漢字表です。「当用」というのは、「当面の間は用いる」という意味ですから、そこには、いずれはこれらの漢字も廃止しようという政府の隠れたもくろみがあったのでしょう。当時、これを批判する言語学者、竹内輝芳は「当用漢字ナイナイづくしの歌」というものを作っています。その一部を抜粋して紹介します。
「犬があって猫がない 雨が降っても傘がない 金があっても財布がない」
その後、日本の国語政策は漢字制限を強化する方向には進まず、現代では「戦後国語施策」の誤りを指摘する声が多く聞かれます。
日本語には同音異義がたくさんあります。以前にこのブログで「法要をお願いします」を「抱擁をお願いしますと」とメールで打ち間違えた話を紹介しましたが、「ほうよう」という、かな表記からは、どちらの「ほうよう」か文脈から判断するしかありません。「ほうよう」には「包容」もあります。
小学生の生徒の親からの欠席連絡のメールで「子どもは時価千円でした」とあり、「まさか人身売買?」とびっくりした先生がいます。「時価千円」は「耳下腺炎」の打ち間違いでした。これを「じかせんえん」とか「jikasenen]と記したのでは、ぱっと見て意味がとれません。
漢字の廃止を学者や作家が真面目に考えていたというのは、理解に苦しみますが、事実です。
もし漢字が全廃されていたら、仏教界はどうなっていたでしょうか。僧侶は従来通り漢字でお経を学んでいたでしょうが、一般市民は漢字は読めません。一般市民にとって、仏教はまったく手の届かない、遠いものとなっていたことでしょう。
仏教者として、漢字が廃止されなくてよかったと、しみじみと思います。
痴漢撲滅協会
生徒から、こんなことを言われたことがあります。
「僕、痴漢撲滅協会を作ろうと思うんです。先生、ぜひ会長に就任してください」
なんで痴漢撲滅協会を作りたいのか、彼に訊いてみました。
「僕の彼女が、きのう痴漢の被害に遭ったんです。僕はこの犯罪行為を絶対に許すことはできません」
そう彼は毅然として答えました。わたしは会長を引き受けることにしました。
といっても、メンバーは会長のわたしと彼だけ。名ばかりの会でした。ですが、たった一回だけ、この協会の会長らしい行動をとったことがあります。
残業をしての帰路、夜10時くらい、東横線が日吉駅に着いて大勢の乗客が降車している中で、今にも泣き出しそうな弱々しい女性の声を聞きました。
「この人痴漢なんです」
女性は小さな手で男の腕を掴んでいました。わたしは女性と一緒に男の腕を掴み、男をホームへ引きずり降ろしました。ほとんど無意識の行為でした。疲労で頭がぼうっとしていて、気が付いたら男の手を掴んでいました。頭が冴えていたら、躊躇(ちゅうちょ)していたかもしれません(情けない話ですが)。
降ろしたのはいいのですが、わたしはまったく屈強ではありません。武道初段ですが、それは弓道です。
「引きずり降ろしたものの、これからどうしたものか・・・」と困っていると、三十代と思われる、がたいの大きい男性が助けてくれました。
「僕が痴漢を押さえていますから、あなたは駅員を呼びにいってください」
痴漢は複数の駅員に囲まれました。
「痴漢は犯罪です!」と書かれたポスターを駅の構内で目にします。欲望を煽(あお)るような情報が氾濫しているからなのでしょうか、痴漢行為が大きな問題となっているようです。
仏教の修行の一つに忍辱(にんにく)があります。仏教を学び始めたころ「忍辱」とは単に我慢することだと思っていましたが、正しくは、恥辱や迫害に耐えて心を安らかにすることでした。欲望を我慢するということではありませんでした。忍辱はもっと高度な修行でした。欲望を押さえるという基本的なことができない人が増えている気がします。
「娑婆(しゃば)」という、人間世界を意味する言葉があります。これは古代インドの文章語、サンスクリットの「サーハ」に漢字の音を当てたものですが、サーハは「忍土」と訳されました。この世は耐え忍ばなければいけない場所ということでありましょう。
それが現代は、物質文明の発達で、肉体的には、耐え忍ぶことが少ない世になりました。肉体的欲望も昔に比べたら、簡単に充足させることのできる世の中となっています。果たしてそれはよいことなのでしょうか。
わたしたちは、人類史上、最も快適で気持ちのよい世界に住んでいますが、その結果、失ったものも大きいようです。
フロー現象・幸運の流れにのる
昨日は、Zoomによる24時間お題目リレーの日でしたが、これに加えて仏壇の御霊抜きと一周忌並びに墓碑開眼・納骨法要の二件のご依頼が重なりました。どうしたものかと思っていると、自然の流れで、重なっていた時間がずれて、スムーズにすべてを行うことができました。フロー現象の中にいるように感じました。
フローとは、流れにのった状態のことです。シンクロニシティ―が立て続けに生じ、好ましい状況へと運ばれている状態といってもよいでしょう(「シンクロニシティー」については、本ブログ中の「シンクロニシシティーで道は開ける」をご覧ください)。
『パワー オブ フロー・幸運の流れをつかむ新しい哲学』(河出書房新社刊)という本の帯に記されている、フローについての説明を抜粋します。
「フローは偶然を呼ぶ。偶然は必然である。偶然がよく起こるのは、進んでいる道がまちがっていないことへの証。意味のある偶然をつかみ、流れにのる、それがフローに生きること。すべてを成就させる力、それがフローの力」
作家で静岡県伊東市・願行寺の住職、牛込覚心師は、夕方四時半ころ、急にお通夜が入ったとの連絡を受けました。その折、覚心師は所用で東京の赤坂のホテルにいました。お寺でお通夜が営まれるのは午後六時。赤坂から伊東市伊豆高原にあるお寺までは、列車でも車でも二時間半はかかります。まして夕方のラッシュ時です。お通夜にはとうてい間に合いそうにありません。それでも帰るしかありません。覚心師は車で帰路につきました。
すると、信じられないことに、覚心師は一時間半でお寺に帰り、無事お通夜を営むことができたのです。
赤坂から伊豆高原のお寺に着くまでの間、なんと一回も赤信号でストップすることがありませんでした。よいことではありませんが、猛スピードで走りました。ですが白バイにもパトカーにも出遭わず、走行する車の前は開けて、前方の車は相当遠くを走っているという状況でした。高速道路の料金所も常に空(す)いていました。
まさにフロー現象が生じたといってよいでしょう。仏さまの導きがあったとしか言いようがありません。
わたしは、仏教に関わることでは、昨日の件だけではなく、フローを感じることがよくあります。
数年前、わたしを得度に導いてくださった師である瀬野泰光上人の奥様、瀬野妙佳上人は、自著を刊行したいと考えていました。しかし、めぼしい出版社との縁がありませんでした。「日蓮宗関連の本を複数刊行している佼成出版社で、本を出せたらよいのだけれど」と妙佳師から言われましたが、わたしにもその人脈がありません。
その数日後のことです。わたしがファーストフードの店でチーズバーガーを食べていると、隣に座った若い女性から声をかけられました。
「小島先生ですよね」
「そうですが・・・」
よく見ると彼女は、今は小学校の教員をしている、わたしの教え子でした。しばらく思い出話に花を咲かせた後、わたしは、彼女の家が祖父母の代から立正佼成会の会員であったことを思い出しました。
「君の家は立正佼成会で、君も信心していると言っていたよね」
「先生、よく覚えていますね」
「ひょっとして、佼成出版社に知人はいないかな」
「いますよ」
びっくりです。その後、話はトントン拍子で進展し、佼成出版社から妙佳師の本、『唱えるという生活ーお題目が導いてくれるほんとうの幸せー』が刊行されることとなりました。
偶然、同じ時刻に同じ店の隣の席に座った教え子が佼成出版との縁を持っていたことに、驚かずにはいられませんでした。食事の席で偶然に教え子に出会ったのは、この時だけです。
教え子との出会いから書籍の刊行にいたるまでの流れは大変にスムーズで、フロー現象が生じていることを感じました。
フローが生じてる時は、見えない世界から「その道を進んでいいのだよ」というメッセージを受け取っていると言ってよいようです。
「運命は決まっているのですか?」に書きましたが、生まれる前に決めた「いのちの流れ」というものがあります。「いのちの流れに沿って、今、ここを前向きに生きているとき、フローは生じる」と実感しています。