体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

痴漢撲滅協会

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 生徒から、こんなことを言われたことがあります。

「僕、痴漢撲滅協会を作ろうと思うんです。先生、ぜひ会長に就任してください」

なんで痴漢撲滅協会を作りたいのか、彼に訊いてみました。

「僕の彼女が、きのう痴漢の被害に遭ったんです。僕はこの犯罪行為を絶対に許すことはできません」

そう彼は毅然として答えました。わたしは会長を引き受けることにしました。

といっても、メンバーは会長のわたしと彼だけ。名ばかりの会でした。ですが、たった一回だけ、この協会の会長らしい行動をとったことがあります。

残業をしての帰路、夜10時くらい、東横線日吉駅に着いて大勢の乗客が降車している中で、今にも泣き出しそうな弱々しい女性の声を聞きました。

「この人痴漢なんです」

女性は小さな手で男の腕を掴んでいました。わたしは女性と一緒に男の腕を掴み、男をホームへ引きずり降ろしました。ほとんど無意識の行為でした。疲労で頭がぼうっとしていて、気が付いたら男の手を掴んでいました。頭が冴えていたら、躊躇(ちゅうちょ)していたかもしれません(情けない話ですが)。

降ろしたのはいいのですが、わたしはまったく屈強ではありません。武道初段ですが、それは弓道です。

「引きずり降ろしたものの、これからどうしたものか・・・」と困っていると、三十代と思われる、がたいの大きい男性が助けてくれました。

「僕が痴漢を押さえていますから、あなたは駅員を呼びにいってください」

痴漢は複数の駅員に囲まれました。

「痴漢は犯罪です!」と書かれたポスターを駅の構内で目にします。欲望を煽(あお)るような情報が氾濫しているからなのでしょうか、痴漢行為が大きな問題となっているようです。

仏教の修行の一つに忍辱(にんにく)があります。仏教を学び始めたころ「忍辱」とは単に我慢することだと思っていましたが、正しくは、恥辱や迫害に耐えて心を安らかにすることでした。欲望を我慢するということではありませんでした。忍辱はもっと高度な修行でした。欲望を押さえるという基本的なことができない人が増えている気がします。

「娑婆(しゃば)」という、人間世界を意味する言葉があります。これは古代インドの文章語、サンスクリットの「サーハ」に漢字の音を当てたものですが、サーハは「忍土」と訳されました。この世は耐え忍ばなければいけない場所ということでありましょう。

それが現代は、物質文明の発達で、肉体的には、耐え忍ぶことが少ない世になりました。肉体的欲望も昔に比べたら、簡単に充足させることのできる世の中となっています。果たしてそれはよいことなのでしょうか。

わたしたちは、人類史上、最も快適で気持ちのよい世界に住んでいますが、その結果、失ったものも大きいようです。