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南無妙法蓮華経とは何か

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南無妙法蓮華経とは何か。このタイトルで法話をすることとなり、その準備をしています。それでブログを三日間更新することができませんでした。

このようなタイトルでお話をするのは、「身の程をわきまえていない行為である」という自覚はあります。ですが、今のわたしのレベルでのお話を一生懸命させていただくことにも意義はあるだろと考えています。南無妙法蓮華経の真髄を体得してからお話をしようと思ったら、あの世へ帰るまでお話はできません。

法華経の教え、唱題(南無妙法蓮華経と唱えること)は、現代人の抱える心の闇を癒す妙薬であると、わたしは強く実感しています。

今日、師である斉藤大法上人のフェイスブック上の文章に教えられ、触発されて、法話の準備が大いに進みました。以下に、今日のフェイスブック上での大法上人との交流を紹介します。

なお、文中の「但行礼拝」とは、常不軽菩薩という修行者が実践した、ただひたすら、出会ったすべての人に対して、たとえ自分に石を投げつけるような人にも、敬いの心を持って合掌するという行です 。

また「不軽品の二十四文字」とは「我深敬汝等(がじんきょうにょとう)不敢軽慢(ふかんきょうまん)所以者何(しょいしゃが)汝等皆行菩薩道(にょとうかいぎょうぼさつどう)當得作佛(とうとくさぶつ)の二十四文字です。その意味は次のとおりです。

私はあなたがたを深く敬います。決して軽んずることをいたしません。その理由(わけ)は、あなたがたのすべてが、仏への道を歩むことによって、仏となることができるからです。

 

大法上人 :  態度価値とは、人間が運命を受け止める『態度』によって実現される価値である。病や貧困やその他様々な苦痛の前で、活動の自由(創造価値)を奪われ、楽しみ(体験価値)が奪われたとしても、その運命を受け止める態度を決める『自由』が人間に残されている。

フランクルアウシュビッツという極限の状況の中にあっても、人間らしい尊厳のある態度を取り続けた人がいたことを体験した。フランクルは人間が最後まで実現しうる価値として、この態度価値を重視するのである

 

弘之 : 私たちは、日常、どれだけ物事を成し得たかという生産価値のもとに生きています。それで心が癒されることはありません。私は教員時代、生徒に生産価値ではなく態度価値を重視するように勧めてきました。そして私自身は、同時にもう一つの価値観を重視して生きてきました。それは存在価値です。これは法華経に登場する常不軽菩薩のもっている価値観です。彼は、他者を蔑み、時には自分をも蔑んでいる、人間らしい尊厳ある態度を取っていない人にも、真に敬いの心を持って合掌しました。それは誰の心の中にも仏としての本質があると認識していたからでした。他者の、そして自己の尊厳を傷つけている生徒。そのような生徒にも、私は心中で本気で合掌する修行を常不軽菩薩に倣ってしてきました。この修行がなければ、私は教員としての人生をまっとうできなかったでしょう。態度価値と存在価値。この二つの価値観は、僧侶となった今、さらに大切なものとなっています。生産価値によっていたのでは本当の南無妙法蓮華経は永遠に唱えることができない。そう実感しています。

 

大法上人 : 有難うございます。存在価値と但行礼拝 最重要ですね。 その通りですね。昔からの事ですが、価値や効率がこれほどまでに重要視されるようになったのは、近年だと思います。そのために教育や医療などあらゆる分野が歪んできていますね。ストレスも大きく止まることを知らない。特に経済システムがそれに拍車をかけている。そのバックには、生産性や効率を煽って利を得ている者があると思います。一般的にここから抜け出ることは、難しいことだと思います。誰が止めるのこの車輪。輪廻の現代版とでもいうべきか。それに乗れる者も地獄。こぼれる者も地獄。操る者は、悪魔なのでこれも幸せにはなれない。根源的な尊さ、それを発現する可能性として但行礼拝しかない。そこから始まる。

 

弘之  :   但行礼拝しかない。仰る通りだと思います。日蓮聖人は、『崇駿天皇御書』で「一代の肝心は法華経法華経の肝心は不軽品にて候なり」とお書きになっています。また『顕仏未来記』では「不軽品の二十四文字と妙法蓮華経の五文字は、その語は異なっていても意味は同じである」と仰せです。多くの法華の修行者、信徒の南無妙法蓮華経が深まっていかないのは、唱題の中に但行礼拝の心が置かれていないからではないでしょうか。この礼拝の対象には自己も含まれていると思います。「自己も他者も仏としての性質を内に持っている」という絶対的な信。それがないと唱題は形だけのものになってしまう。自戒の意を込めてそう思います。

 

ただ、南無妙法蓮華経を唱えていれば病気が治ったり家内が安全だったりすると思っている人にとっては、「いったい、何のことやら」という記事であるかもしれません。

ですが、たとえわずかでも、このブログに触れて、心に抱ている苦しみから真に解放され癒されたいと願い、お題目を唱える道に目を向けてくださる人があれば、こんなに嬉しいことはありません。

言うまでもなく、この記事だけで南無妙法蓮華経を理解することはできません。理解しようとするなら、まずは聴いてみて、唱えてみることが肝要です。

お題目を聴いてみて唱えてみようかと思う方、どうぞ遠慮なくご連絡ください。