体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

祈りを深めています

「祈祷」とは「神仏に祈ること」ですが、一般の人が「祈る」ことは、普通「祈祷する」とは言いません。祈祷は宗教的な職能に就いている行者が為す「祈り」と言ってよいでしょう。

「祈祷」を特に密教では「加持」と言いいます。加持とは仏と行者の行為が一体となることを言います。このことで、願主の災いを除き、願いを叶えるのです。

お加持の際、行者は感応道交(かんのうどうこう)します。「感応道交」とは、仏と行者のいのちが響き合うことを言います。

わたしは密教僧ではなく法華の僧ですが、祈祷の際には密教僧と同様に感応道交しています。これがなければ、祈祷は単なるパフォーマンスになってしまいます。

ある高名な密教僧がガンに罹患して、専門の名医のいる高名な病院に入院したときのことです。周囲の僧侶たちがお加持をしたかというと、そうではありませんでした。

大多数の僧侶は、高度な現代の医療を頼りにしてはいても、自分たちの祈りが効くとは思っていないようです。

いっぽう、自らが仏と響き合うことを実感して、ガン患者の加持をしている密教僧も存在します。ほとんどの祈りが形だけになってしてしまっている中で、御仏の実在を実感し、真摯に加持祈祷をしている僧侶もいるのです。

先日、日蓮宗の百か日に及ぶ荒行を本年、成満(成就)した複数の修法師(しゅほっし)による祈祷会(きとうえ)のお手伝いをしましたが、その折のことです。その中のお一人の修法師について、その方が、御仏(みほとけ)と感応道交されていることを、ひしひしと感じました。

どの宗門にも、形骸化してしまった、僧侶の祈りが存在すると共に、真摯で本当に御仏と響き合った僧侶の祈りも存在するのだと思います。

わたしが、我が法華道場にお祀りしているご本尊は、中央に南無妙法蓮華経と大きく書かれ、その周囲に神仏の名が書かれている十界大曼荼羅です。密教僧ではないので、不動明王や、観世音菩薩など一尊をご本尊としてはいません

法華の僧であるわたしの祈りの対象は、妙法蓮華経です。『妙法蓮華経』は『法華経』というお経の正式タイトルですが、同時に、万物を成立させている「根源的なるもの」です。この根源的実在の人格的表現が久遠実成の本仏、永遠の仏陀です。

わたしは木剣で祈祷をする修法師ではありませんので、祈祷を依頼された折には、ご本尊の前で、ただ法華経を読誦(どくじゅ)し唱題をします。ひたすら南無妙法蓮華経を唱えていますと、ご本尊と一つになり法華三昧に入ります。

わたしは斉藤大法上人の許で修行させていただき、徐々にこの三昧に入ることができるようになりました。

その結果、御仏が働いてくださることを実感し、依頼主にとって最も良い結果を得ることができたことを経験しています。

加持祈祷にはさまざまな方法がありますが、わたしは、その核心は一つであると思っています。それは御仏への信です。この信の深まりがなければ、御仏と響き合うことはできません。

さらに言えば、祈祷するにあたっては、その結果はすべて御仏におまかせし、どのような場合にも依頼主の仏身成就(仏と成ること)を願うことが肝要であると思っています。

知人の寺に「主人の浮気相手を祈り殺してほしいんです」という電話がかかってきたことがあるそうです。まともな仏教僧なら、そのような依頼はお断りします。当たり前のことですが。これは余談でした。

テレビの時代劇やマンガに登場する祈祷師は、だいたい怪しげな人物ですが、真摯に御仏と向き合っている祈祷僧もいるのです。

御仏は決して観念的なものではなく実在する。このことをありありと感じて、祈りを深めています。