体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

無我ってなに? ー 心中の泉とつながる ー

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知識人と呼ばれる人でも、ほとんどの人が釈尊の説かれた「無我」を正しく理解していない。そうわたしは思っています。

広辞苑』で「無我」はつぎのように定義されています。

「我(が)の存在を否定すること。我は人間存在や事物の根底に永遠不変の実態的存在(アートマン)」

広辞苑』と双璧をなす中型国語辞典『大辞林』でも同じような定義がなされています。

わたしはこの「無我」の定義を肯うことができません。人間存在や事物の根底には永遠不変の実態的存在がある。実体がないのは自我である。そう仏道修行のなかで感じています。

自我というのは、地位、学歴、容姿の良し悪し、資産といったものによって規定される、他者と比較して優劣がつけられる「わたし」です。これらは死ねば失われてしまう実体のないものです。

なかには死んでもこれら実体の無いもの、すなわち自我に囚われ、しがみついている霊もいます(それゆえに供養が必要となるのです)。

真実の自己というものは永遠に失われることなく在る。そう言うと「あなたは仏教を理解していない」と言われかねません。国民的国語辞典の「無我」の定義を否定しているのですから(「霊」を認めている時点で、仏教者ではないと言われそうですが)。ですが少数ではあっても、わたしと同様のことを考えている仏教者もいるのです。

東京大学名誉教授のインド哲学者、前田専学氏は、ゴータマ・ブッダ釈尊)の教説について、つぎのような意味のことを「ゴータマ・ブッダとはどんな人か(『BOOK GUIDE 仏教入門』(法蔵館刊)所収)で述べられています。

ゴータマ・ブッダの教えにおいて、解脱する(目覚める)ということは、真実の自己を、真実のアートマンを見出すことである。その真実のアートマン、真実の自己は、いわゆる自我とかエゴとか言われるものではなくして、宇宙の根本原理ブラフマンと等しい、普遍的な自己である.。

「執着や我執の垢に塗れた自己ではなく、法、すなわち宇宙の普遍的な理法に合致する清浄な真実の自己」そのような自己の実在をゴータマ・ブッダは認めていたのではないかというのが前田専学氏の論です。

仏教の教説は変容していき、『広辞苑』に記載されているような「無我」の定義が定着していきますが、本来、釈尊は、前田氏が言うような「普遍的自己」を否定せず、認めていたのだと、わたしも思っています。

この「普遍的自己」のことを、わたしは「無我なるわたし」と呼んでいます。私たちは日常、自我が自分だと思っているけれど、自我の奥に在る「無我なるわたし」こそが、消滅することのない「本当のわたし」である。そのように感じています。「無我なるわたし」とは「自我は無い。自我はいずれは消えて無くなると明確に認識しているわたし」です。

自我は傷ついたり苦しんだりします。その自我としての「わたし」を癒す瞑想があります。ですが仏道における瞑想は、自我を癒すのではなく、自我を超えて「普遍的自己」、「無我なるわたし」に目覚めていく道であると感じています。

この「無我なるわたし」に目覚めていくと、心の中のコンコンと水が涌き出る、いのちの泉とつながり、永遠に渇くことがなくなります。涌き出る水は、みほとけのいのちです。

唱題は心中の泉につながる瞑想である。そのように感じ実践しています。