体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

瞑想の真実

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「ね、なぜ旅にでるの?」「苦しいからさ」

こんな一節が太宰治の『津軽』にありました。

わたしも昔、苦しくて旅に出たことがあります。

コロナ禍で今、旅をすることが困難となっていますが、自宅にいて、お金をかけずに苦しみから解放される方法が流行しています。それはマインドフルネス瞑想です。

マインドフルネスを直訳すると「心が満たされている状態」となりますが、マインドフルネスとはつぎのような在り方です。

今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること。(日本マインドフルネス学会による定義)

わたしは運動神経が極めて鈍くスポーツが苦手なのですが、教員時代、男子バスケ部の顧問をしていたことがあります(優れたOBのコーチがいたので、なんとかやっていけました)。顧問として、試合前に選手にこんなアドバイスをしたことがあります。

試合中、自分がミスをして点差が開くと「あのとき、俺があんなプレーをしなければ」という自責の念にとらわれることがある。また、こちらが優勢で点差が開いていても、相手が追いついてくると、焦りや不安に駆られることがある。それではいけない。過去も未来も断ち切れ。この瞬間、自分がどのようなプレーをすればよいのか、今に集中しろ。

これは「マインドフルネスの状態でプレーしろ」ということです。

マインドフルネス瞑想は生産性を高めたり、スポーツや学習に集中するための手段として用いられています。実際、グーグルなどの大企業でマインドフル瞑想が導入されています。海外では学校教育のなかにも、この瞑想が取り入れられています。

マインドフルネス瞑想に関する書物は数多く出版され、この瞑想を教える教室もあります。瞑想ビジネスが成り立つ時代となっています。もし、あなたがこの瞑想に関心をお持ちなら、インターネットや書籍で簡単にその情報を入手することができます。

旅の話に戻りますが、苦しかったわたしは旅をしてリフレッシュして日常生活に帰りました。しかし少しするとまた苦しみも帰ってきました。旅によって苦しみ消すことはできませんでした。

苦しみを解消させるために、実際にマインドフル瞑想を行ったこともあります。たしかにこれは効果がありました。雑然として混乱していた頭の中が整理されてクリアになり、日常生活のなかでのパフォーマンスの質が向上しました。

マインドフルネス瞑想は、旅よりも苦しみに効く。そうわたしは感じています。

わたしたちは、子どものころから比較され、競争させられ、傷つき、ときには他者を傷つけながら生きています(そのような世界のなかで、わたしは教員として生きてきました)。

マインドフルネス瞑想には、比較されて傷つき、常にさらなる上を目指して頑張り続けている自我をクールダウンし、癒すはたらきがあります。

ですが、わたしは今、マインドフルネス瞑想ではなく唱題という瞑想を実践しています。それは、マインドフルネス瞑想では、顕在意識を癒すことができても、深層意識に潜むカルマやトラウマといったものを癒すことが困難であるからです。されに言えば、その奥に在る仏性(仏としての本質)に目覚めることもできないからです。

達磨大師(だるまだいし)が中国に禅という瞑想をもたらしたとき、達磨は時の皇帝から、禅にはどのような功徳があるのかと問われ、「無功徳」と答えました。「禅を実践しても何のよい事もない」と答えたのです。

皇帝の言う功徳、よい事というのは、国が護られるとか、経済的に豊かになるとか、病気が治るとかいった、この世的なメリットでした。禅という瞑想は、そのようなものを得るために行うものではない。そのようなこととは関係ない。そう達磨は皇帝に言ったのです。

釈尊の教えられた瞑想は、世俗的な何かを獲得するために行うものではありません。今ここに在って自己の内なる仏性を顕現するためにあるのです。禅も唱題もそのような瞑想です。

表面の意識が整理されクリアになることは、メンタルヘルス上、好ましいのは間違いありません。その結果、作業効率もあがるでしょう。それゆえ、企業はマインドフルネス瞑想を取り入れているのです。

いっぽう釈尊の瞑想は、あくまでも、この世におけるメリットを追求するものではなく、仏性に目覚めるためにあるのです。これは資本主義経済に寄与することはないのでビジネスにはならないでしょう。

釈尊の瞑想が寄与するのは資本主義社会ではなく世界平和です(言うまでもなく唱題もそうです)。自己の内なる仏性に目覚めた人の数が世界の総人口の一定数に達した時、世界は真に平和になるであろう。そうわたしは確信しています。

さて、わたしの周囲に、自己の仏性に目覚めるために唱題という瞑想を実践している人がどれだけいるかというと、そのような人はほとんどいません。

心身の両面で健康がすぐれない。対人関係がうまくいかない。生きていく上で不安がある。そのような苦しみから解放されたいという思いで多くの人が唱題をしています。

わたしはそれでよいと思っています。唱題について「無功徳」と言うつもりはありません。内なる仏性に目ざめる前に、自己を癒し平安を得ることが必要です。実際に唱題には心身を癒す力があります。

癒され平安を得て、内なる仏性に目覚め、自他ともに仏の世界を目指す菩薩となる。そのような道程(みちのり)を歩むのが唱題であると考えています。唱題は道である。そう思ってわたしは唱題を実践しています。

一つ付記しておきます。今、企業や海外の学校で取り入れられているマインドフルネス瞑想の源流は釈尊の瞑想です。それが物質中心主義の社会をよりよく生きるための手段となってしまっているということなのです。